「樋口季一郎」の版間の差分

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[[1942年]]([[昭和]]17年)[[8月1日]]、[[札幌市|札幌]]に司令部を置く[[北部軍 (日本軍)|北部軍]](のち[[北方軍]]・[[第5方面軍 (日本軍)|第5方面軍]]と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。[[1943年]][[アッツ島]]玉砕、[[キスカ島撤退作戦|キスカ島撤退]](いずれも対アメリカ)を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の[[木村昌福]]少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し無血撤退の成功に貢献した。
=== 終戦後、対ソ連占守島・樺太防衛戦 ===
敗戦、[[1945年]]8月18日以降[[占守島]]、[[樺太]]における対ソビエト軍への戦闘を指揮し、[[占守島の戦い]]ではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与え、防衛戦に勝利した。そのため[[極東国際軍事裁判]]に際し、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は当時軍人として札幌に在住していた樋口を「[[戦犯]]」に指名した。[[世界ユダヤ人会議]]はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家による[[ロビー活動]]も始まった。世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、[[ダグラス・マッカーサー]]はソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した<ref>戦後[[イスラエル]]建国功労者として安江とともに「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになった。また、樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件はただの一件も起きていない。</ref>。
 
== 人物 ==