「貞観地震」の版間の差分
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9世紀には大きな[[地震]]・[[噴火]]が頻発しており、これらは『日本三代実録』に収録されている。
貞観地震との地球物理学的関連性は明らかではないが、地震の前後に[[火山]]の噴火が起こっている。この地震の5年前の貞観6年([[864年]])には[[富士山]]の[[青木ヶ原|青木ヶ原樹海]]における[[溶岩流]]を噴出した[[貞観大噴火]]が起きている(噴火の詳細については「[[富士山の噴火史]]」も参照)。また、2年後の貞観13年([[871年]])には[[鳥海山]]の噴火記録がある<ref>[http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-16e0.html 保立道久の研究雑記] 保立道久(2011): 地震火山19貞観地震翌々年の出羽鳥海山の噴火</ref>。この地震の9年後の[[元慶]]2年([[878年]])には、[[伊勢原断層]]の活動、又は[[相模トラフ]]のプレート間地震とも推定されるM 7.4の[[相模・武蔵地震]](現在の[[関東地方]]における地震)が発生しており、[[誘発地震]]の可能性が指摘されているが、間隔が開きすぎているともされている<ref>[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/PREV_HP/outreach/eqvolc/201103_tohoku/ 2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震]([[東京大学地震研究所]]:広報アウトリーチ室)</ref>。915年には十和田火山の大噴火による火山灰(To-a)が東北地方の全域に及び、宮城県北部においても火山灰に埋もれ、そのまま廃絶された水田跡が検出されており<ref>[http://sitereports.nabunken.go.jp/10185/ 石巻市八幡遺跡]宮城県教育委員会 2004年 「八幡遺跡」『沢田山西遺跡ほか-三陸縦貫自動車道建設関連遺跡調査報告書Ⅲ-』宮城県文化財調査報告書第196集</ref>、貞観地震津波に続き、東北地方に重大かつ深刻な社会変動を引き起こした。韓半島では白頭山もこのころ大噴火
西日本では前年の貞観10年([[868年]])に[[播磨地震]]([[山崎断層]]を震源とする地震)、[[仁和]]3年([[887年]])に[[南海トラフ巨大地震]]と推定される[[仁和地震]](M 8.0〜8.5。一般的に[[南海地震]]とされるが、[[東海地震|東海]]・[[東南海地震|東南海]]との連動説も有り)が起こっている。これらの関連性は不明であるが、この時代日本付近の地殻が大きく変動していた可能性が高いとされる<ref>[[藤井敏嗣]]、Newton, 2013年2月号、ニュートンプレス</ref>。
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* 887年8月26日([[仁和]]3年7月30日)- '''[[仁和地震]]'''([[南海トラフ巨大地震]]?)、M8.0〜8.5
* 915年 [[十和田]]火山噴火。火山灰(To-a)が東北地方全域に及ぶ。(『[[扶桑略記]]』裏書)。
* 940年ころ - 韓半島の[[白頭山]]噴火
== 調査研究 ==
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[[1995年]]には飯沼勇義は宮城県[[名取市]]の[[神社]]に伝わる貞観年間の[[疫病]]の流行により庶民が大いに苦しんだとする[[伝承]]と貞観津波との関連を指摘<ref>飯沼勇義 『仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う』 宝文堂、1995年</ref>し、今後も津波に襲われる危険性を訴えた。
この津波に関する伝説・伝承は25例が確認され、宮城県[[気仙沼市]]から[[茨城県]][[大洋村]](現・[[鉾田市]])にかけて分布している。これを基に宮城県 - [[茨城県]]沖の日本海溝沿いに長さ230[[キロメートル|km]]、幅50kmの断層モデルが仮定され、M8.5が推定されていた<ref>渡邊偉夫 「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000554352 869(貞観11)年の地震・津波と推定される津波の波源域]」『津波工学研究報告』第17号、27-48、2000年、東北大学大学院工学研究科災害制御研究センター</ref>。一方、三陸地方に津波伝承が残らない理由として、そもそも津波が頻繁に次から次へと襲う津波常習地には津波伝承は生まれにくいことと、文字を持たない蝦夷の伝承が後の住民へと語り継がれたかどうかは疑問が残り、伝説・伝承が残らない三陸地方が直ちに被災しなかったことを意味するものではないことも指摘されている<ref>渡邊偉夫 「伝承から地震・津波の実態をどこまで解明できるか-貞観十一年(869年)の地震・津波を例として-」『歴史地震』第17号、130-146、2001年、なお[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_17.html 『歴史地震』第17号の目次]では「伝承から地震・津波の実態をどこまで解明できるか-貞観十一年(689年)の地震・津波を例として-」と表記されているが
陸奥国地大震動を[[十和田湖|十和田カルデラ]]の噴火に関連するものと考えた研究も存在するが<ref name="Ito">伊藤一允 「貞観十一年「陸奥国地大震動」と十和田火山についてのノート」『弘前大学国史研究』 第100号、1997年</ref>、古くから吉田東伍は「流光如昼隱映」は噴火によるものとは限らず、この発光現象は他に原因があるものと考えていた。十和田カルデラの噴火は『[[扶桑略記]]』裏書にある[[915年]]([[延喜]]15年)に発生したと推定されており、この[[テフラ]]の堆積物(火山灰)は貞観津波堆積物層(砂)の直上に位置し、貞観津波堆積物と明確に区別可能であり、またこの堆積物が貞観津波によるものであることを容易に識別させる時代考証の指標にもなっている<ref name="Shiso">{{PDF|[https://unit.aist.go.jp/ievg/report/jishin/tohoku/no.16.pdf 平安の人々が見た巨大津波を再現する-西暦869年貞観津波]}}([[産業技術総合研究所]] [[地質調査総合センター|活断層・地震研究センター]]「AFERC NEWS No.16 August 2010」)</ref>。
10月13日の詔中の文言「陸奥国境、地震尤甚、或海水暴溢而為患」の「陸奥国境」とは、「陸奥国の境の内」の意味であって陸奥国中の広い範囲で尤も甚だしく被害が出るほどであったと解釈され<ref>[http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-1e1c.html 保立道久の研究雑記] [[保立道久]](2011): 9世紀火山地震(5)--貞観地震</ref>、12月14日の伊勢神宮告文中の「陸奥国又異常奈留地震之灾言上多利。自餘国々毛、又頗有件灾止言上多利」の記述は、被災が陸奥国に留まらず、隣国すなわち[[常陸国]]も同様である事を報告したとも読め、広い範囲に及ぶものであったと解釈される<ref>{{PDFlink|[http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/millennium_tsunami/repository/meeting_20110617/tsuji.pdf 都司嘉宣(2011)]}} 都司嘉宣(2011): 歴史記録の上のミレニアム津波</ref><ref name="Tsuji2011">都司嘉宣『千年震災』ダイヤモンド社、2011年</ref>
=== 津波堆積物調査と震源域推定 ===
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