「赤穂線」の版間の差分

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[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]86号「兵庫縣有年ヨリ岡山縣伊部ヲ經テ西大寺附近ニ至ル鐡道及赤穂附近ヨリ分岐シテ那波附近ニ至ル鐡道」に該当する。山陽本線は[[山陽道]]に沿って建設されたことから、[[船坂峠]]([[上郡駅]] - [[三石駅]]間)という難所を抱えることとなった。赤穂線は、山陽本線の輸送力を補う代替・バイパス線として計画・建設された路線であり、戦前の[[新幹線]]計画である[[弾丸列車]]計画では、赤穂線に並行して同幹線を建設する予定であったといわれる。
 
また、同線の予定線上には[[赤穂事件]]とそれをモデルとした芝居の[[忠臣蔵]]で有名な[[赤穂藩]]5万石の元城下町であり、海岸沿いの[[塩田]]から良質の[[塩]]が産出される[[赤穂市]]<ref>赤穂市の市制施行は1951年、それまでは[[赤穂郡]]赤穂町。</ref>と、天下の奇祭として知られる[[西大寺会陽]]が開かれる[[西大寺 (岡山市)|西大寺]]の門前町として発展した[[西大寺市]]<ref>西大寺市の市制施行は1953年、それまでは[[上道郡]]西大寺町。</ref>があり、赤穂線が開通する以前、これらの町と山陽本線を結びつけるために、[[有年駅]] - 播州赤穂駅間の[[赤穂鉄道]]と、西大寺駅 - 後楽園駅間の西大寺軌道(のちの[[西大寺鉄道]]、[[両備ホールディングス|両備バス]]西大寺鉄道線)という二つの[[軽便鉄道]]が計画され、大正時代までに開業した。これらの鉄道の存在は、上記の改正鉄道敷設法にも影響を与えている。
 
昭和初期には、[[山陽電気鉄道]]の前身である[[宇治川電気|宇治川電気部]]も赤穂・片上・西大寺を経由して岡山に伸ばす構想を持っていたが、当時の鉄道省により「省線予定線との並行路線」という理由で延伸自体が却下され実現しなかった<ref>宇治電電鉄部が岡山延伸のために立ち上げた子会社の社名が、「山陽電気鉄道」であった。</ref>。その後、宇治川電気から独立した山陽電気鉄道は、[[1937年]]に建設が開始された[[日本製鉄]][[新日鉄住金広畑製鉄所|広畑製鐡所]]への通勤客の輸送手段として、[[山陽電気鉄道網干線|網干線]]を[[1941年]]7月に開業させ、戦後、網干線を延長する形で、[[1952年]]に[[山陽網干駅|電鉄網干駅]]から赤穂市上仮屋までの路線敷設免許を取得したが、社会情勢の変化に伴い、[[1971年]]までに免許を返上した。
 
赤穂線の建設予算は、[[1936年|1936]](昭和11)年の[[帝国議会]]で承認され、[[1938年]]には[[相生駅|那波駅]]から赤穂方面に向かって建設が開始されたが、[[太平洋戦争]]の激化に伴い、工事は中断された。戦後再着工され、[[1951年]][[12月12日]]に相生駅—播州赤穂駅間が開業した。赤穂線と赤穂鉄道の並走区間は[[砂越駅]]—播州赤穂駅間だけであったが、千種川に沿って有年駅に出る赤穂鉄道では姫路・神戸・大阪方面へは遠回りとなることから、前日の[[12月11日]]で全線を廃止した。その後も工事は西に向かって続けられ、[[1956年]]には[[日生駅]]へ、[[1958年]]には[[伊部駅]]へと延伸、[[1962年]]には[[東岡山駅]]までの全線が開業した。両備バス西大寺鉄道線は、経営状態は良好であったが、自社路線に並行して赤穂線が開業したことにより、全線開通直後の[[9月7日]]に廃止された。この間の[[1961年]]には相生駅—播州赤穂駅間が電化されている。
 
しかしながら、赤穂線の全通時点で並行する山陽本線の電化が完了<ref>上郡駅〜倉敷駅間及び宇野線の電化は[[1960年]][[10月1日]]。</ref>し輸送力の増強が終わっていた一方、赤穂線自身は単線・一部非電化での全通であったため、当初想定されていた「山陽本線の輸送力を補う代替路線」ではなく、「地域住民のための[[ローカル線]]」という存在での開通となってしまった。その後赤穂線も[[1969年]]に全線が電化されたものの、現在に至るまでローカル線という存在に変わりはない。ただ、山陽本線が事故や災害などで不通になった時の迂回路線として活用されたことはある<ref>例えば、1962年9月13日に[[吉永駅]]構内で発生した貨物列車脱線転覆事故の際に、急行「筑紫」を赤穂線経由で迂回運行させたことがある。</ref>。