「島津久保」の版間の差分

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== 略歴==
[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]後、[[日向国]][[諸県郡]]に所領を与えられたが一時的ではあるが[[豊臣氏]]の人質となる。早くから伯父・[[島津義久|義久]]、父・義弘から後継者と目され、[[小田原征伐]]や[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]に参陣したが、[[文禄]]2年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]([[1593年]][[10月2日]])、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[巨済島]]で病死した。[[享年]]21。[[殉死]]者が3名出ている。また、[[堀之内久規]]と[[平山忠続]]という者が、久保の菩提を弔うために[[山伏]]となり(久規は日限坊、忠続は一忠坊と改名)、六十余州を廻歴して一国三部の[[法華経]]を納めている。
 
朝鮮出兵で父・義弘は正確な時刻を計るために[[猫]]を7匹従軍させた。これは猫の目が明るいところでは細くなり、暗いところでは丸くなる変化から、時刻を読み取ったものである。7匹のうち生還できたのは2匹だけだが、そのうちの1匹を久保が可愛がり、ヤスという名前で、白地に黄色の波紋があった。[[磯庭園]]の一角に[[猫神神社]]がありこの7匹の猫が祀られている。[[絵馬]]は白と黄色の猫で、ヤスの模様を表している<ref>[[須磨章]]『猫は犬より働いた』(柏書房、2004年)145-149頁</ref>。
 
伯父である義久は久保を弔う為に、冒頭に「南・無・阿・弥・陀・佛」を冠した和歌を詠じている<ref>『島津中興記』青潮社 1979年</ref>(後述)。