「西部劇」の版間の差分

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なお19世紀後半(特に1860年代から1890年代にかけて)のアメリカ西部を舞台とするとした西部劇の定義は必ずしも厳密なものではなく、[[ゲイリー・クーパー]]主演「征服されざる人々」の舞台は独立宣言前の東部のペンシルベニア州ピッツバーグであり、[[ジョン・フォード]]監督[[ヘンリー・フォンダ]]主演「[[モホークの太鼓]]」は独立戦争時のニューヨーク州が舞台で、[[セシル・B・デミル]]監督「[[北西騎馬警官隊]]」は時代は1880年代だが舞台はカナダで、いずれも未開拓の地を切り開いていく物語であり西部劇と見なされている。また「[[明日に向って撃て!]]」「[[アラスカ魂]]」「[[ワイルドバンチ]]」は、20世紀初頭の物語であり、「明日に向って撃て!」は最後は南米ボリビア、「[[アラスカ魂]]」はアラスカ、「[[ワイルドバンチ]]」や他に「[[荒野の七人]]」などはメキシコが舞台だが西部劇のジャンルとされている。
 
そして最後は第一次世界大戦時になる「[[シマロン (1960年の映画)|シマロン]]」西部劇に入るが、同じ作家が書いた「[[ジャイアンツ_(映画)|ジャイアンツ]]」はテキサスを舞台にかした20世紀の物語で西部劇とはされていない。また南部アトランタを舞台に南北戦争時のストーリーである「[[風と共に去りぬ_(映画)|風と共に去りぬ]]」は、西部劇のジャンルには入っていない。
 
==西部劇の歴史==
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西部の荒野で、逆境に立ち向かい、悪をやっつけて、弱者(女性や子供)には優しいガンマンを主人公に、[[懸賞金]]が掛けられたお尋ね者と決闘したり、駅馬車を追っかけたり、銀行強盗があったり、騎兵隊が来たり、そして先住のインディアンと争ったりするのがパターンであった。実在した[[保安官]]([[ワイアット・アープ]]や[[ワイルド・ビル・ヒコック]])や[[ガンマン]]([[バット・マスターソン]]、[[ビリー・ザ・キッド]]、[[ジェシー・ジェームス]])を題材にして、アメリカ西部の大自然を背景に開拓者魂(フロティア精神)を詩情豊かに描く西部劇は多くの人々を魅了し、西部開拓時代への[[ノスタルジー]]を掻き立てられた<ref>[[カウボーイ]]には黒人も多かったし、町には中国人など外国人も多かった。中国人が西部劇に出たものとしてはジェフ・ブリッジス主演『ワイルド・ビル』(1995年)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ/天地風雲』([[1997年]])、[[ジャッキー・チェン]]主演の『[[シャンハイ・ヌーン]]』([[2000年]])がある。『戦う幌馬車』 ([[:en:The War Wagon|The War Wagon]][[1967年]])には[[カーク・ダグラス]]が箸で中華料理を食べる場面もある。</ref>。それは19世紀後半の西部開拓時代での開拓者精神を称え、アメリカを発展させたものとして賛美するものであった。
 
こうした西部劇の基本は強く勇敢なヒーローの存在であり、そのヒーローを演じる俳優は西部劇スターとなった。最初の頃に登場したブロンコ・ビリー・アンダーソン<ref>本名ギルバート・M・アンダーソン。1882年~1971年。もとはボードビリアンで、最初の本格的西部劇の「大列車強盗」では1人3役をこなしている。この最初の西部劇スターは乗馬も射撃も全くダメですべて代役が演じていたと言われている。なお後にクリント・イーストウッド主演で「ブロンコ・ビリー」が製作されたが、「大列車強盗」に出演したブロンコ・ビリー・アンダーソン本人とは直接の関係はない。</ref>は「ブンコ・ビリー」<ref>「ブンコ・ビリー」シリーズで1907年から1914年まで合計375本製作された。なお別の資料では1908年から1915年までで500本に及んだという説もある。 </ref>シリーズで主演し、毎週1本ずつ一巻物(上映時間12分まで)で製作された連続活劇に7年間出演した。
 
ブロンコ・ビリーの後にはブロードウエイの舞台俳優であった[[:w:William S. Hart|ウィリアム・S・ハート]] が二挺拳銃の颯爽とした姿で登場し「西部の騎士」のようなスタイルで多くの観客を魅了した。ハートはそれまでの西部劇役者とは全く異質で、騎士道精神を前面に出しながらも孤独で悲劇的立場に追い込まれる場面が多く、そこが観客の心を強く打つものであった。<ref>「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 209~211P </ref>彼は俳優のみならず製作・監督にもたずさわり、「曠野の志士」(1925年)などのサイレント作品が日本でも上映されて西部劇映画に大きな足跡を残した。
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第一次世界大戦後にはジェームズ・クルーズ監督「[[幌馬車 (1923年の映画)|幌馬車]]」(1923年)」が製作されて、この映画はスターによるヒーロー物語ではなく、自然の猛威や先住民と戦いながら西部の荒野を西へ西へと進む集団の物語で、それまでの西部劇とは全く違う新しい西部劇を作った。[[ジョン・フォード]]は1924年に大陸横断鉄道の建設を軸にした西部開拓叙事詩「アイアンホース」、1926年に「[[三悪人]]」を製作していた。
 
そして1927年に「[[ジャズシンガー]]」で[[トーキー]]が普及すると、後に「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」を作った[[ヴィクター・フレミング]]監督が1929年「ヴァージニアン」を製作して主演に抜擢された[[ゲイリー・クーパー]]はこの作品で西部劇スターの座を獲得した。その後1936年に[[セシル・B・デミル]]監督の「[[平原児]]」で主役ワイルド・ビル・ヒコックを演じ、ジーン・アーサー演じるカラミティ・ジェーンとの悲恋を絡めながら巧みなガンさばきを見せて大スターとなった。
 
一方1930年[[ラオール・ウォルシュ]]監督の「ビッグ・トレイル」で[[ジョン・フォード]]は当時無名だった[[ジョン・ウェイン]]を推薦して主役に抜擢させたが不評に終わったので、[[ジョン・ウェイン]]はその後B級西部劇に10年近く出演を続けた。そして1939年に[[ジョン・フォード]]がなってB級西部劇映画で俳優として経験を積んだ[[ジョン・ウェイン]]を再び抜擢して[[ジョン・フォード]]は「[[駅馬車 (1939年の映画)|駅馬車]]」を製作し、[[ジョン・ウェイン]]は主役リンゴー・キッドを演じた。この映画は駅馬車の走行にインディアンの襲撃及びガンマンの決闘、そして駅馬車に乗り合わせた乗客のそれぞれの人生模様を描き、たんなる娯楽活劇ではなく西部劇の評価を一気に高めて、今日でも戦前の西部劇の最高峰と評価されている。<ref>「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 215P </ref>
 
この時期にはサイレント映画の名作「ビッグ・パレード」を作った[[キング・ヴィダー]]監督が西部劇の「ビリーザ・キッド」(1930年)、「テキサス決死隊」(1936年)を製作し、同じくサイレントで「スコオ・マン」を作り、トーキー以後の1931年にも再映画化をした[[セシル・B・デミル]]監督が「平原児」の後に1939年に大陸横断鉄道の建設、列車転覆、襲撃、悪との対決、恋を絡ませた[[ジョエル・マクリー]]主演「[[大平原_(映画)|大平原]]」、その翌年1940年に[[ゲイリー・クーパー]]主演「[[北西騎馬警官隊]]」を製作し、同じ1939年に[[ヘンリー・キング]]監督で[[タイロン・パワー]]がジェシー・ジェームスを演じた「[[地獄への道]]」、ジョージ・マーシャル監督で[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュアート]]とマレーネ・ディートリヒ主演「[[砂塵_(映画)|砂塵]]」、1940年に[[ウィリアム・ワイラー]]監督で西部開拓史にその名を残すロイ・ビーン判事を描いた[[ゲイリー・クーパー]]主演「[[西部の男]]」など西部劇の傑作と呼ばれる作品が次々と発表された。