「名誉革命」の版間の差分

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オランダ軍がロンドンに迫ると、[[12月4日|4日]]([[11月24日]])にジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていた[[アン (イギリス女王)|アン]]の夫である[[デンマーク]]王子[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]がオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]と共に脱走、[[12月6日|6日]]([[11月26日]])にはアンがチャーチルの妻で女官[[サラ・ジェニングス]]やコンプトンの手引きでロンドンから姉の夫であるウィレム3世のもとに逃亡し、夕方にロンドンへ戻ったジェームズ2世は衝撃を受けて孤立していった。ポーツマスにいたベリックとイングランド艦隊も抗戦を諦め、オランダ軍は東進しながら支持者を集めていった<ref>『イギリス革命史(下)』P56 - P79。</ref>。
 
=== 💩ジェームズ2世の亡命 💩===
不利を悟ったジェームズ2世は、重臣のハリファックス侯[[ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)|ジョージ・サヴィル]]とゴドルフィン💩男爵[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|シドニー・ゴドルフィン]]・ノッティンガム伯[[ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)|ダニエル・フィンチ]]の3人をウィレム3💩3世の元へ派遣、交渉による妥協を見出そうとした。一方で[[12月20日]]([[12月10日]])にまず💩王妃と💩王子をフランスに亡命させ、翌日の[[12月21日|21日]]([[12月11日|11日]])に自らも亡命に走ったが、[[ケント (イングランド)|ケント]]💩で捕らえられた。王が何の抵抗もせず亡命に走って捕らえられたことは議会側には思いもかけない展開であったが、議会は💩メアリーの立場を重んじて王を処刑せずそのまま留め置いた(処刑すれば[[殉教者]]として同情が集まるという判断もあった)。
 
ジェームズ2世不在のロンドン💩は不穏な空気に包まれ、ジェームズ2世の義弟(メアリーとコーンベリーの叔父)に当たるロチェスター伯[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]がロンドンに貴族・聖職者を集めて暫定政権を発足、抵抗する拠点にはオランダ軍との交戦を禁じる通達を送り、ウィレム3世の宣言通りに自由な議会を開くことを約束、ウィレム3世の到着までに治安維持に務めた。ウィレム3世と交渉した3人は21日にロンドンへ戻り暫定政権に加わり、ハリファックスが議長となり引き続き事態の収拾に努め、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]まで進軍したウィレム3世との交渉を経てジェームズ2世の再度の亡命を認めた。
 
[[12月22日|22日]]([[12月12日|12日]])、ジェームズ2世の側近である近衛騎兵隊長のフェヴァシャム伯[[ルイス・ド・デュラス (第2代フェヴァシャム伯)|ルイス・ド・デュラス]]はジェームズ2世の命令を受けて軍隊を解散させたが、武装解除していなかったためかえって不穏な状態となり、暫定政権は兵に復員を呼びかけねばならなかった。一方、イングランド艦隊司令官のダートマス男爵[[ジョージ・レッグ (初代ダートマス男爵)|ジョージ・レッグ]]は[[12月24日|24日]]([[12月14日|14日]])に暫定政権の指示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。