「パリの解放」の版間の差分

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8月25日午前0時、第4歩兵師団司令官[[レイモンド・バートン]]([[:en:Raymond O. Barton|en]])少将は第12連隊にパリ進出命令を出した。ルクレール少将も第2機甲師団の本隊を三つに分けて市内に突入させた。各部隊はドイツ軍の抵抗と、市民の激しい歓迎にあいながらも、午前11時30分には第12連隊がパリ南東部を占拠し、フランス部隊も[[シャルル・ド・ゴール広場|エトワール広場]]、[[ブルボン宮殿]]に到着した。フランス部隊のうち右翼を進んでいた一隊はドイツ軍の司令部がある[[オテル・ムーリス]]([[:en:Hôtel Meurice]])近くに進出し、コルティッツ大将に降伏勧告を行ったが、この時点では受け入れられなかった。
 
正午、[[エッフェル塔]]の頂上にシーツで作った三色旗が掲げられた。この旗を掲げたのは1940年6月30日のパリ陥落の日に、[[ハーケンクロイツ]]旗を掲げるため、三色旗をおろすことを命じられた消防士であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、285p</ref>。同時刻、フランス軍200人がオテル・ムーリスの攻撃を始め、コルティッツ大将も降伏を覚悟し始めた。しかし正規軍である連合軍に降伏することはあっても、FFIに降伏することはできないと考えていた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、286-287p</ref>。午後1時、パリの状況にいらだったヒトラーはパリ廃墟命令が実施されているか、[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|最高司令部]]作戦部長[[アルフレート・ヨードル]]大将に質問した上で、「Brennt Paris?(パリは燃えているか?)」と3回にわたって叫び、長距離砲や[[V1ロケット飛行爆弾]]、[[空襲]]などあらゆる手段でパリを灰にするよう命じた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、287-288p</ref>が、結局外部からの焦土作戦は実行されなかった。
 
午後1時10分、オテル・ムーリスの玄関にフランス軍のカルシェ(Henri Karcher)中尉ら4人が乗り込んできた。正規軍と遭遇したコルティッツはこれを降伏の機会と考え、[[参謀]]を通じてカルシェ中尉に自分の部屋に来るよう伝えた。カルシェ中尉は司令官室に乗り込むと緊張のあまり「ドイツ語を話せるか?」とドイツ語で叫んだ。「貴官よりいくらか上手だと思う」と答えたコルティッツは降伏する旨を伝え、司令部員は武装解除した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、288-289p</ref>。コルティッツらはルクレールが司令部を置いたパリ警視庁に運ばれ、降伏文書を提示された。しかしその文書にあったルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官・第2機甲師団長」であり、「連合国軍」ではなかった。するとその部屋にFFI[[イル=ド=フランス地域圏]]隊長の[[アンリ・ロル=タンギー]]([[:fr:Henri Rol-Tanguy|fr]])大佐(通称ロル大佐)とFFIに属する軍事行動委員会([[:fr:COMAC (Résistance)|COMAC]])共産党代表[[モーリス・クリーゲル=ヴァリモン]]([[:fr:Maurice Kriegel-Valrimont|fr]])が入室し、ロル大佐にも降伏文書調印資格があると主張し、ルクレールと交渉し始めた。ルクレールと二人の交渉はしばらく続いたが、結局ロル大佐の調印参加が認められ、午後3時30分に降伏文書は調印された<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、289-291p</ref>。コルティッツが降伏命令を各部隊に発出したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、[[ブローニュの森]]にいる2600人の部隊を残すのみとなった。