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[[1583年]][[ガリレオ・ガリレイ]]は、振り子の周期が振幅によらず一定であること(正確には振幅がごく小さい場合に限られる)を発見し、振り子時計を思いついた。[[1656年]][[クリスティアーン・ホイヘンス]]は、サイクロイド曲線を描く振り子および振り子に動力を与える方法を発明し、振り子時計を作った<ref>「図説 時計の歴史」p17 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。
 
[[1654年]][[ロバート・フック]]はひげゼンマイの研究を行い、それが振り子と同じく一定周期で振動することを発見し、[[1675年]]ホイヘンスはこの原理を利用した懐中時計を開発した。18世紀初頭に入ると時計技術の進歩はさらに進み、[[ジョージ・グラハム (時計師)|ジョージ・グラハム]]によってシリンダー脱進機が発明され、彼の弟子である[[トーマス・マッジ]]はレバー式脱進機を発明した<ref>「図説 時計の歴史」p37 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>
 
中世ヨーロッパでの時計の意義は主に[[宗教]]目的で、神に祈りを捧げる時を知るためのものであった。しかし[[大航海時代]]に入り、[[天測航法]]および計時によって現在位置の[[経度]]を知るためには、揺れる船内に長時間放置してもくるわない正確な時計([[クロノメーター]])が必要となった。時刻にして1分の誤差は経度にして15[[分 (角度)|分]](1/4[[度 (角度)|度]]、赤道上で28km)もの誤差となり、時計の狂いが遭難や座礁につながるという事故が多発したためである。[[1713年]]イギリス政府は「5か月間の航海で誤差は1分以内」という懸賞条件に2万ポンドの賞金をかけ<ref>『ジョージ王朝時代のイギリス』 ジョルジュ・ミノワ著 手塚リリ子・手塚喬介訳 白水社文庫クセジュ 2004年10月10日発行 p.125</ref>、[[1736年]][[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]が見合う時計を完成させた。しかしハリソンが単なる職人だったためか、イギリス議会はいろいろと難癖を付けて賞金を払わず、40年に渡って改良を重ねさせた。ハリソンは[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の取りなしがあって、ようやく賞金を手に入れられたが、それは彼の死の3年前であった。
 
時計制作の歴史に革命を起こしたのが天才時計師として名高い[[アブラアム=ルイ・ブレゲ]]であり、彼によって時計の進歩は200年早まったとされる<ref>「図説 時計の歴史」p36 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。ブレゲはスイスのヌシャテルで生まれたのち、[[フランス]]を中心に時計制作を行い、[[トゥールビヨン (時計)|トゥールビヨン]]、[[永久カレンダー]]、[[リピーター (時計)|ミニッツ・リピーター]]など、現代の機械式時計にも用いられている画期的な発明を数多く行った。ブレゲの顧客にはフランス国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]、[[イギリス]]国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]、[[ロシア]]皇帝[[アレクサンドル1世]]などがおり、当時の最高権力者たちはこぞって彼に時計制作を依頼していた。ブレゲがその生涯に制作した時計は約3,800個と言われ、数々の傑作を生み出したが、そのなかでも最高傑作として名高い逸品が、王妃[[マリー・アントワネット]]の注文に応じて制作された懐中時計「マリー・アントワネット」である。{{main|アブラアム=ルイ・ブレゲ#マリー・アントワネット}}
 
その後、機械式時計は精度や携帯性を求めて様々な改良が施された。また、この17 - 19世紀初頭は、職人の徒弟チームによる手工芸的な少量生産から、いかに大量生産で高精度の時計を作れるか・定期的な保守を誰でもできるかという要求により改良がなされていった時代である。ぜんまい動力の掛かる駆動部の[[歯車]]はなるべく均一な力がかかるように歯車の歯数を互いに割り切れないようにする工夫もなされた。気温によって振り子の長さやひげゼンマイの弾性が変化することも精度に影響するため、[[20世紀]]初頭に熱膨張率の小さな[[インバー]]合金、温度によって[[弾性率]]の変化が小さなエリンバー合金が発明され、大きな貢献を与えた。各種あった脱進機も、現在のアンクル脱進機にほぼ絞り込まれていった。
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== 時計産業 ==
時計産業は、17世紀には手工芸的な産業であり、イギリス、フランス、スイスによって激しい技術競争が起こっていた。このうちフランスにおいては[[ナントの勅令]]が[[ルイ14世]]によって[[1685年]]に廃止され、ユグノーが多かった時計職人たちは迫害を逃れてスイスへと移住し、まず[[ジュネーブ]]で、ついでその北東に位置する[[ヌシャテル]]においても時計産業が栄えるようになり、この2都市がスイス時計産業の中心となっていった<ref>「図説 時計の歴史」p35 有澤隆 河出書房新社 2006年1月30日初版発行</ref>。時計の制作は複雑なため、個人ではなく職人たちがチームを組んで分業により制作する方式を採用していたが、これには一つ一つの部品が正確に制作され、それが組み合わされて狂いなく動作することが必要であり、この職人集団は結果として正確な機械製作技術を身につけることとなった。この技術は他の機械製作にも応用されるようになり、産業革命の技術的基礎となった<ref>「興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権」p183-184 福井憲彦 講談社 2008年12月17日第1刷</ref>。このころまでの時計は、航海の安全に直結するクロノメーターを除けば、ほとんどは装飾品に過ぎなかった。しかし産業革命時代に入ると、正確な時間知ることが必要になり、それまでの装飾品とし18 - 19世紀時計から実用品としての比重が急速に高まった。このころはいまだそこまで正確な時計は完成していなかったが、アメリカ西部開拓時代になると、正確かつ規格化された鉄道時計の需要が生まれ、精度の高い時計が求められるとともにアメリカに開発・生産の重心を移していった。ところが労働コストの上昇等により、20世紀前半までにはアメリカの時計産業は衰退した。19世紀末から労働コストが安い[[スイス]]・[[ドイツ]]などが時計産業の中心となった。
 
日本での精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。クォーツ時計の発明、さらに1970年代以降の[[デジタル]]化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し日本へとその主軸を移していった。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。