「津山藩」の版間の差分

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[[元禄]]10年([[1697年]])、4代[[森長成|長成]]が死去し、[[末期養子]]として2代[[森長継|長継]]の第24子で家臣となっていた[[森衆利|関衆利]]が迎えられた。同年、衆利は継承挨拶のため[[江戸]]に出府途中に[[伊勢国|伊勢]]で発狂したため、[[江戸幕府|幕府]]は美作津山藩を召し上げた。森氏は長継が健在であり、またその子も多数いたため 、長継が[[備中国|備中]][[西江原藩]](2万石)、長俊が[[播磨国|播磨]][[三日月藩]](1万5000石)、関長治が備中[[新見藩]](1万8000石)をそれぞれ立藩した。
 
元禄11年([[1698年]])、[[結城秀康]]を祖とする[[越前松平家]]の[[分]]の[[松平宣富]]が10万石で入封、[[廃藩置県]]まで松平氏が治めるところとなった。[[享保]]6年([[1721年]])に家督を継いだ嗣子[[松平浅五郎|浅五郎]]が享保11年([[1726年]])に16歳にて嫡子なく死去したが、[[御家門]]であるため、などの理由で改易は免れ、宣富の弟で[[白河新田藩]]主[[松平知清]]の三男の[[松平長煕|長熙]](浅五郎からは従兄弟にあたる)を迎え、家督を相続させた。ただし、知行は半減の5万石となり、藩の格式も低下した。のち、8代藩主として11代将軍[[徳川家斉|家斉]]の子の[[松平斉民|斉民]]を養子として迎える策により、石高を10万石に復帰させることに成功した。
 
松平氏の藩政時代は政情が不安定であった。入封の年には元禄一揆([[高倉騒動]])があり、享保11年には[[山中一揆]](さんちゅういっき)、[[幕末]]には[[改政一揆]]と農民[[一揆]]が頻発した。当藩からは幕末から[[明治]]にかけて藩医であった[[宇田川家]]・[[箕作家]]からは優れた洋学者を輩出し、日本の近代科学発展に寄与した。そして、津山藩士の[[津田真道]]は[[皇紀]]という紀元を確立した。また、[[内閣総理大臣]]となった[[平沼騏一郎]]は津山藩の出身である。