「真藤恒」の版間の差分

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[[1934年]]春、[[九州帝国大学]][[工学部]]造船学科を卒業後、播磨造船所(現・石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」ラドウィックと手を組み、当時としては画期的な手法で数々の船舶を建造し、専門の船ではそれまでの常識を破ったズングリムックリ型の[[タンカー]]を考え出したり、従来の貨物船が一隻ごとにオーナーと仕様を決めるオーダーメイドであったのを、あらかじめ造船所が主要スペックを決めてカタログ販売する[[標準船]]を世に送り出した。造船では二流企業でしかなかった石川島播磨重工を業界トップに押し上げ、日本の造船業の発展に尽力。[[1972年]][[11月6日]]から社長を務め、合理化を推進したが、造船不況の中で、大規模な人員削減を実施した。建造量で[[三菱重工業]]を追い抜くという快挙を達成した直後の出来事だった。その責任を取って[[1979年]][[4月2日]]社長を退任した。会長の座を断って、相談役に就いた。
 
[[1981年]]に同社出身の[[土光敏夫]][[経団連]]名誉会長(当時)に請われ、旧日本電信電話公社総裁に就任。同公社の民営化を積極的に推進し、[[1985年]]4月の日本電信電話株式会社(NTT)発足に伴い初代社長に就任した。しかし[[リクルート事件]]で、同社事業への支援の謝礼として値上がり確実なリクルートコスモス非公開株1万株の譲渡を受けたことが発覚し、[[1988年]][[12月12日]]にNTT会長を辞任。[[1989年]]3月6日にNTT法違反(収賄)容疑で元秘書とども逮捕、東京拘置所へ収監。逮捕された後、「(清廉な)土光さんが生きていたらオレは破門だな」と悔やむ。拘置所に収監された時の思い出として、初めて布団の上げ下ろしの仕方を看守から教えて貰ったと語る。

[[1990年]][[10月9日]]東京地裁において懲役2年、執行猶予3年、追徴金2270万円の有罪判決が出て、その後、確定している。そして一切弁明することも無く、公職や経営の一線から身を引いていた。
 
最後にメディアに登場したのは[[1995年]]春、[[日経BP社|日経BP]]のインタビュー記事である。「民営化は万能薬ではない」とし、「大事なのは競争状態を作ることだ」、「事業の独占を放置したまま民営化すると、逆に民業圧迫になる」と語っている。