「ピエール・ラヴァル」の版間の差分
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[[ピュイ=ド=ドーム県]]出身。無所属だが収入の多い弁護士となり新聞やラジオ局のオーナーでもあった。弁護士時代の彼は、訴訟を実際に起こすのを避けていた{{sfn|早川文敏|2004|p.110}}。彼は「嚙みつきの技」と呼ばれる、説得に長けた人物であったという{{sfn|早川文敏|2004|p.110}}。1914年、31歳の時に[[パリ]]近郊の[[オーベルヴィリエ]]市の市会議員として政治活動を開始した{{sfn|早川文敏|2004|p.108}}。最初[[フランス社会党]]で活動したが、[[第一次世界大戦]]を機に社会主義から保守派に転向した。一方で反戦デモを鎮圧した政府の対応を批判したり、[[ヴェルサイユ条約]]によるドイツへの苛酷な懲罰には反対している{{sfn|早川文敏|2004|p.110}}。1923年にはオーベルヴィリエ市の市長となっている{{sfn|早川文敏|2004|p.109}}。
保守系の支持を得て1930〜1940年代に3度にわたって[[フランスの首相|首相]]を歴任した。また[[1931年]]には[[タイム (雑誌)|米タイム誌]]によって[[パーソン・オブ・ザ・イヤー|マン・オブ・ザ・イヤー]]に選ばれている。この年の首相就任時には、フランスも[[世界恐慌]]の煽りを受け、政権は混乱した。[[
===ヴィシー政権の成立===
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