「鶴田氏」の版間の差分

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[[宝治]]2年([[1248年]])、鶴田氏は他の渋谷一族である[[東郷氏 (薩摩国)|東郷氏]]・[[祁答院氏]]・[[入来院氏]]・[[高城氏 (薩摩国)|高城氏]]と共に薩摩国へ移住する。しかし、初代の重諸は[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]で既に討ち死にしていたため、薩摩国鶴田へ移住したのは2代[[鶴田重行|重行]]であった。重行は祁答院の佐志(現:さつま町[[宮之城町|宮之城地区]])へ館を築いたが、すぐさま[[鶴田城]]を築城しそこを本拠とした。
 
鶴田氏は他の渋谷一族と同様、[[守護職|守護]]の[[島津氏]]に従っていたが、やがて島津氏が[[総州家 (島津氏)|総州家]]と[[奥州家 (島津氏)|奥州家]]とに分かれて争うようになると、否応なくこれに巻き込まれる。4代[[鶴田重成|重成]]は奥州家の[[島津元久]]についたが、他の四家は総州家の[[島津伊久]]についた。[[応永]]8年([[1401年]])、重成が他の四家に討ち負け、本拠を追われて菱刈(現:鹿児島県[[伊佐市]]菱刈)へと去った。このため、鶴田氏はたったの四代で没落することとなった。
 
嫡流は断絶となったが、[[島津歳久]]が死んだ際に[[殉死]]した[[鶴田主税]]や、[[北郷忠虎]]臣下の[[鶴田貞明]]などもおり、鹿児島衆中、加治木衆中、谷山衆中などにも庶流もしくは別系統と思しき鶴田姓が見え、現在も鹿児島市には子孫がいる。庶流の湯田氏も島津氏の家臣として存続した。