「インド・パキスタン分離独立」の版間の差分

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[[File:Brit IndianEmpireReligions3.jpg|thumb|left|イギリス領インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分布(ピンクがヒンドゥー、緑がイスラム、黄が仏教)]]
しかし、当のインドでは[[多数派]]([[マジョリティ]])の[[ヒンドゥー教徒]]と[[社会的少数者]]([[マイノリティ]])である[[イスラム教徒]]の対立は激しさを増し、特に[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]を指導者とする[[全インド・ムスリム連盟]]は[[1940年]]のラホール決議([[:en:Lahore Resolution|Lahore Resolution]])で「'''二民族論'''」<ref>「ジンナー(略)・1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた」[http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume035.html NHK高校講座 世界史 第35回 南アジアの独立 ~インド、パキスタン、バングラデシュ~]</ref>([[:en:Two-Nation Theory|Two-Nation Theory]])を唱え、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離を強硬に主張していた<ref>もっとも、ジンナーもこの時点では分離独立ではなく、[[地方分権|分権]]的なインドにおけるイスラム教徒自治州の創設を希望していたとの説が有力である。[[ムハンマド・アリー・ジンナー#偶像、批判、研究]]も参照。</ref>。
 
[[マハトマ・ガンディー]]はこうした分離の動きに強く反対して[[統一インド]]の実現を唱えており、[[インド国民会議派]]も[[政教分離]]・[[世俗主義]]の立場から[[宗教]]による分離には慎重で、[[インド共産党]]や[[ヒンドゥー・ナショナリスト]]もそれぞれの反応をみせたが、分離の勢いが止まることはなかった。
 
[[File:Gandhi with Lord and Lady Mountbatten.jpg|thumb|マウントバッテン総督(左)とガンディー(中央)]]
 
=== 分割の確定 ===
イギリスも当初はヒンドゥー教徒の多い地域に[[ヒンドゥスタン]]、イスラム教徒の多い地域にパキスタン、そして各[[藩王国]]を残し、この三者で「[[インド連邦]]」を構成する独立案を構想していたが、合意は得られなかった<ref>イギリスは親英的な藩王国およびパキスタンを通じて国民会議派が率いるヒンドゥー教徒の勢力を牽制し、インドに影響力を残そうとした。これに対してイギリスの影響力を排した[[中央集権]]的な独立国家を求める国民会議派が反発したのである。[[イギリス領インド帝国#ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947]]も参照。</ref>。