「インド・パキスタン分離独立」の版間の差分
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[[File:Brit IndianEmpireReligions3.jpg|thumb|left|イギリス領インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分布(ピンクがヒンドゥー、緑がイスラム、黄が仏教)]]
しかし、当のインドでは
[[マハトマ・ガンディー]]はこうした分離の動きに強く反対して[[統一インド]]の実現を唱えており、[[インド国民会議派]]も[[政教分離]]・[[世俗主義]]の立場から[[宗教]]による分離には慎重で、[[インド共産党]]や[[ヒンドゥー・ナショナリスト]]もそれぞれの反応をみせたが、分離の勢いが止まることはなかった。
[[File:Gandhi with Lord and Lady Mountbatten.jpg|thumb|マウントバッテン総督(左)とガンディー(中央)]]
=== 分割の確定 ===
イギリスも当初はヒンドゥー教徒の多い地域に[[ヒンドゥスタン]]、イスラム教徒の多い地域にパキスタン、そして各[[藩王国]]を残し、この三者で「[[インド連邦]]」を構成する独立案を構想していたが、合意は得られなかった<ref>イギリスは親英的な藩王国およびパキスタンを通じて国民会議派が率いるヒンドゥー教徒の勢力を牽制し、インドに影響力を残そうとした。これに対してイギリスの影響力を排した[[中央集権]]的な独立国家を求める国民会議派が反発したのである。[[イギリス領インド帝国#ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947]]も参照。</ref>。
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