「丸山眞男」の版間の差分

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=== 投獄経験に関して ===
* [[逮捕]]されて[[拘置所]]に送られたとき、「不覚にも一睡もできない[[拘置所]]で涙を流した。そのことが日ごろの『知性』などというものの頼りなさを思い切り私に自覚させた」といい、「[[軍隊]]経験にまさるとも劣らない深い人生についての経験」だったと述べた<ref>死後公表された『自己内対語』(みすず書房)による。</ref>。
* 丸山は元々は、父と同じ[[ジャーナリスト]]志望で、[[東京帝国大学]]に残る気はなかったが、たまたま[[助手 (教育)|助手]]公募の掲示をみて応募したという。自身[[逮捕]]歴があり、[[マルクス主義]]に影響を受けた論文を書いて[[特別高等警察|特高]]や[[憲兵]]の監視を受けていた人間を助手として雇うだけの度量が[[東京大学|東大]][[法学部]]にあるのなら、[[研究室]]に残ってもいい、と考えたらしい。当時の丸山の指導教授だった[[南原繁]]は、丸山の論文のそういう性格を見抜いたうえで、さらには丸山が自分の逮捕歴などを告白したのを聞いたうえで、丸山を助手に採用したのは、<!--日頃の中庸な言動の裏での-->南原の本心が、<!--[[コミンテルン]]32年テーゼに従った激しい[[天皇制廃止論]]者であったし、[[中国共産党]]と特段の関係にある[[コミュニスト]]であり、-->丸山とは“思想の同志”的な位置にいたからである<ref>参考文献;丸山真男/[[福田歓一]]編『聞き書 南原繁回想録』、[[東京大学出版会]]、272頁、269頁。南原繁「日中国交回復の道」『[[世界]]』1958年10月号。南原繁/郭沫若「十八年ぶりの日本」『[[中央公論]]』1956年2月号。</ref>。
 
=== 思想形成外伝 ===