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'''ウダイプル'''([[ヒンディー語]]: '''उदयपुर''', [[英語]]:'''Udaipur''')は、[[インド]]北西部の[[ラージャスターン州]]に属する都市である。[[ウダイプル県]]の行政庁所在地。[[アフマダーバード]]の北東約 200km、[[アラーヴァ山脈]]南東部の標高約 750mの丘の上にあり、[[ピチョーラ湖]]に面する。北西インドと[[アラビア海]]とを結ぶ交通路上の要地を占める。[[公用語]]は[[ヒンディー語]]、人口は約60万人(2014年)。'''ウダイプール'''と英語風に発音されることもある。
[[湖畔]]の[[宮殿]]都市であり、町並みは、白い建物の景観が美しく「ホワイト・シティ」とも呼ばれている。
 
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== 歴史 ==
===メーワール王国===
[[File:Rana-udai-singh-ii.jpg|leftright|thumb|200px|[[ウダイ・シング2世]]]]
[[File:Statue_of_Maharana_Pratap_of_Mewar,_commemorating_the_Battle_of_Haldighati,_City_Palace,_Udaipur.jpg|leftright|200px|thumb|[[プラタープ・シング (メーワール王)|プラタープ・シング]][[騎馬像]]]]
[[ムガル帝国]]の第3代君主[[アクバル]]1世の時代、[[ラージプート]]の各王国に恭順するよう呼びかけていた。他の王国はムガル帝国の強大な力の前に屈し恭順を受け容れたが、[[ラージプート]]族のなかでも最も高貴な[[シソーディヤー氏族]]に属した[[メーワール王国]]だけは頑強に対抗した。メーワール王[[ウダイ・シング2世]]はムガル皇帝アクバルへの服属を拒否したため、[[1567年]]に首都[[チットールガル]]を包囲された。
 
メーワールのラージプートたちはアクバルを何度も死に追い詰めるほど徹底的に抗戦し、再三に渡る降伏の勧告にも屈しなかった。落城が決定的になると、8000人の死装束をまとった戦士たちが城門を開いて打って出ると同時に、城内の数千の婦女子は純潔を守るために火中に身を投じた。数次にわたる攻防で敗色濃厚となった時、また数千の兵士が出陣して討ち死にをしたという。
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山に囲まれたウダイプルで、川を堰き止めて、[[ピチョーラ湖]]や[[ファテー・サーガル湖]]など多くの[[人造湖]]を築いた。湖は隣の湖とつながり水量を調節するようになっている。水利の模範ともなるこの湖[[灌漑]]により、長く繁栄してきた。
 
 
1572年2月、父ウダイ・シング2世が死亡したことにより、その息子[[プラタープ・シング (メーワール王)|プラタープ・シング]]が、王位を継承した。引き続き[[ムガル帝国]]に抵抗し続けた。プラタープ・シングは強大な帝国に対して、他のラージプート諸国の援助もなく戦い続けた
ハルディーガーティーの戦いでメーワール軍は奮戦し、一時は帝国軍を混乱に陥れた。だが、アクバル自身が率いてきた援軍が到着し、不利を悟ったプラタープ・シングは[[アラヴァリ山脈]]地帯へ撤退、大半のメーワールの土地をムガル王朝に奪われる。しかし[[プラタープ・シング]]は[[チットールガル]]を取り戻すまでは、贅沢もせず、金銀の食器も使わず、草の上で眠り、髭の先を上に曲げることもしない」と復讐の誓いを立て、ゲリラ戦に戦法を変えてムガル軍に抵抗し、遂に[[チットールガル]]とマンダルガル以外のメーワールの土地を取り戻すことに成功する。プラタープ・シングの[[ゲリラ]]戦法は、後にアフマドナガル王国の武将[[マリク・アンバル]]、そして[[マラーター王国]]の創始者[[シヴァージー]]に受け継がれた。
その後、英領下にも同藩王国の主都として存続した。[[メーワール王国]]の歴代君主たちは、[[ピチョーラ湖]]を見下ろす[[宮殿]]を中心に、調和よく歴史的建造物を建設し、「東洋のベニス」「湖の都」などと呼ばれ、その美しさがたたえられている。ラージャスターン州南部の行政、商業の中心地である。
 
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== 名所==
*シティ・パレス(マハーラーナ宮殿)
 
ウダイプルの建設と同時に[[ウダイ・シング2世]]により建てられた。メーワール王は、他のマハジャとは別格で、「マハーラーナー」(武王)と呼ばれている。
ピチョーラ湖に臨んで、当時の壮大な王宮が、[[大理石]]、[[花崗岩]]で建てられ今に残る。
 
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18世紀、アマルチャンドゥ・バードワー首相が建造し、イギリスからの独立後に博物館になり、館内には、マハーラージャの伝統的な品々や、音楽の生演奏、伝統舞踊のナイトショーが行われる。
 
*ジャグマンディル宮殿
 
[[ピチョーラ湖]]の小島の上、1551年に[[アマル・シング (メーワール王)|アマル・シング]]により建設が開始され、1620〜28年[[カラン・シング2世]]が継承し、1628〜52年には[[ジャガト・シング]]によって最終的には完成。
完成に導いたジャガト・シングに敬意を表して[[ジャガト・マンディル]]と命名されました。王族の避暑地として使用された宮殿。
 
*ジャグディーシュ寺院
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*サヘリヨン・キ・バリ(侍女達の庭園)
マハラーナが造った18世紀初めの造園。[[ファテー・サガール湖]]の東岸に位置し、王族の娘達や侍女達がピクニックにやってきた場所。噴水や大理石製の象の彫像、咲き乱れる色とりどりの[[ブーゲンビリア]]の花が美しい庭園蓮池などがきれいに配置されている。
*アハール[[慰霊碑]]
ウダイプル王家の墓域で、ドームを載せ、外部に開放的なチャトリ群が残る(本来、ヒンドゥー教徒は墓をつくらないが、イスラムがやってくると、王侯のために墓廟を建てる習慣が持ち込まれた。) また近くのアハール博物館には、[[紀元前1700年]]前の[[インダス文明]]の出土品、10世紀に制作された[[仏像]]などを収蔵する
 
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[[Category:インドの計画都市]]
[[Category:ラージャスターン]]
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