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== 背景 ==
1944年6月6日に[[ノルマンディー上陸作戦]]が行われて以降、占領者である[[ドイツ軍]]とその支配下の政府である傀儡・[[ヴィシー政権]]に対するフランス国」国内の[[レジスタンス運動]]の動きはさらに活発化した。北アフリカの[[アルジェ]]に位置する[[フランス共和国臨時政府]]は、独自の軍隊である[[フランス解放軍]]([[:fr:Armée française de la Libération]])<ref group="注釈">1943年8月1日に[[自由フランス軍]]と北アフリカのヴィシー政権軍が合併している。</ref>とレジスタンスの統合組織[[全国抵抗評議会]](CNR)とその傘下の[[フランス国内軍]](FFI、[[:en:French Forces of the Interior|en]])を支配下に置いていた。しかしCNRは右派から左派までの寄り合い所帯であり、一枚岩の組織ではなかった。
 
臨時政府の代表であった[[シャルル・ド・ゴール]]は、戦後における自らの影響力を確保するためには臨時政府による早期の[[パリ]]解放が不可欠であると考えており、CNRに参加している左派勢力主導の解放は望んでいなかった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、262p</ref>。ド・ゴールは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍ヨーロッパ戦域最高司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大将にパリ攻略を急ぐよう何度も要請したが、アイゼンハワーの司令部はドイツ軍の抵抗が強固であると予想されること、占領した際のパリを給養する物資が膨大なものになると予想されること、ヴィシー政府の退陣を待ってフランス国民が臨時政府を受け入れる用意が出来るのが望ましいことなどを理由に、パリを一部部隊で包囲するにとどめる計画であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、262-263p</ref>。8月19日にはアメリカ軍[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]第15軍団第79師団が[[セーヌ川]]のほとり[[マント=ラ=ジョリー]]に到着した。