「小金井喜美子」の版間の差分

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同居した姑と仲が良かったものの、子供4人の出産・育児と家事に追われる中、[[1898年]](明治31年)1月に胃の出血で倒れると、しばらく筆を絶った。[[1909年]](明治42年)、創刊された『[[スバル]]』に「向島の家」や「千住の家」など身辺雑記のような随筆を発表<ref>森まゆみは、喜美子の文章について次のように指摘した。「明治の知識階級の女性らしい、品格のある、すらりとした、落ち着いたものである。「ありませんかった」「しませんかった」との語尾は、[[若松賤子]]『小公子』にも見られるこの時代、この階級独特のものである。[[樋口一葉]]の「雅俗折衷法」なる[[文語]]体と、[[田村俊子]]ら「新しい女」の[[口語]]体との間をつなぐ女性文体として注目されよう」。300頁。</ref>。[[1911年]](明治44年)、[[平塚らいてう]]等が『[[青鞜]]』を創刊するさい、乞われて鴎外の妻[[森志げ|しげ子]]とともに賛助員になった。その後、昭和期に入っても、身辺雑記のような随筆を発表した。
 
また、歌人として常磐会に参加したり、『[[明星 (文芸誌)|明星]]』の後継誌『[[冬柏]]』(<small>とうはく</small>。[[与謝野鉄幹|与謝野寛]]・[[与謝野晶子|晶子]]が主宰)に投稿したりした。とくに六十代に入ると、伊勢や熊野、南紀、北海道、雲仙などに一人旅をし、詠んだ歌を『冬柏』に投稿した。[[1940年]](昭和15年)に歌文集『泡沫千首』(私家版)<ref>喜美子は、タイトルにある「泡沫」を「みなわ」と呼んだ。1892年、鴎外が刊行した処女作品集を『水沫(みなわ)集』と名付けたことと関連する。中井、454頁。</ref>を、[[1943年]](昭和18年)に『森鴎外の系族』を刊行した。晩年は、孫20人にめぐまれ、一族で会食をすることもあり、しばしば夫と夜遅くまで会話を楽しむ等、穏やかな日々をすごした<ref>『森鴎外の系族』には、スナップ写真「銀座通りを孫たちと行く小金井夫妻(1941年7月)」が掲載されている。中井、462頁。</ref>。[[1955年]](昭和30年)10月に随筆「普請中」を発表し、翌56年([[昭和]]31年)1月26日に他界。享年85。同年遺著として『鴎外の思い出』が刊行された。
 
なお葬儀に際し、70年来の知人で、鴎外とも親交の深かった[[佐佐木信綱]]が次の歌をたむけた。