「砂子義一」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
54行目:
プリンスと日産が合併した後、旧日産側のリーダー格だった[[田中健二郎]]が日産を離脱した<ref group="注釈">乗るマシンに恵まれなかったためか、プライベートチームである[[滝進太郎|タキレーシング]]に移籍。</ref>のに対し、旧プリンスワークスだった砂子は日産・R380やR381などの最高峰マシンでレースに出場し続けた。
 
日産が1969年頃から海外進出を目論みワークスドライバーをアメリカとヨーロッパに視察に派遣した時、[[北野元]]がR380で北米を担当。砂子はスカイラインGT(54CRという発展型)でヨーロッパを担当した。[[モンツァ・サーキット]]にて、ツーリングカーレースをかじっているという通訳の女性の運転で5周ほど下見した後、交代して「ガーンと走ったら」その通訳の女性を失禁させてしまった。<ref>[[三栄書房]]「[[日本の名レース100選]]」 vol.55 '66[[第三回日本GP]] 42年目の真実 p.30 ISBN 978-4-7796-0377-8</ref>
 
1970年7月の富士1000kmでスカイライン2000GT-Rに乗り2位になった際、砂子があまりペースアップしないため、ペアを組んだ後輩の[[長谷見昌弘]]から「なぜもっと(1位を)追いかけないんですか」と言われたという。砂子は「あのレースでは[[日産・フェアレディZ|フェアレディ]]240Zに勝たせるのが俺等の役割だったから」と述べている。同レースはフェアレディ240Zのデビューレースであり、[[高橋国光]]と[[黒澤元治]]の乗る240Zが優勝した。