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天文20年([[1551年]])8月末、義隆と険悪な関係になった武断派の陶隆房(周防国守護代)が謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)もこれを黙認し義隆を救援することはなかった。
 
義隆は親族である[[津和野]]の[[吉見正頼]]を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の[[大寧寺]]までたどり着くとそこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、義隆は隆豊の介錯で自害した。[[享年]]45。[[辞世]]は「討つ者も討たるる者も{{smaller読み仮名|諸|もろ}}ともに {{読み仮名|如露亦如電{{smaller|にょろやくにょでん}}{{読み仮名|応作如是観{{smaller|おうさにょぜかん}}」と伝わる。
 
義隆の実子の[[大内義尊]]も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した<ref group="註">大名としての大内家は滅亡したが、[[庶家]]([[大内持盛]]の末裔)で[[尾張国]]に移った[[山口氏#牛久山口氏|牛久山口氏]]があり、[[江戸時代]]に大名([[牛久藩]]主)となって幕末まで続いている。</ref>。またこの時周防に滞在していた左大臣・[[三条公頼]]をはじめとする多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ殺害された。<!--また、義隆の死を以って[[日明勘合貿易]]が断絶した。--><!--投げ込み-->