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=== マイソール王国の藩王国化、内政権摂取===
[[File:Anglo-Mysore War 4.png|thumb|right|200px|第四次戦争によって奪われたマイソール王国の版図]]
マイソール王ティプー・スルターンが[[第四次マイソール戦争]]で死亡したのち、[[イギリス]]は[[マイソール・スルターン朝]]の廃絶を決め、[[ヒンドゥー]]の[[オデヤ朝]]の復活を決定した。こうして、[[6月30日]]に幼王[[クリシュナ・ラージャ3世]]はマイソールにおいて即位式を挙げ、王位を継承した<ref>[http://www.royalark.net/India/mysore4.htm Mysore 4]</ref>。
 
そのうえ、[[7月8日]]にはイギリスとの間に軍事保護条約が締結され、マイソール王国は[[藩王国]]となった(マイソール藩王国)<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.44</ref>。それは必要に応じてイギリスが内政権を摂収することができるという、非常に従属性の強いものであった。また、戦後にマイソールの領土はイギリスと[[マラーター王国]]、[[ニザーム藩王国]]に割譲され、その領土はほぼ半分になった。
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[[1868年]][[3月27日]]、クリシュナ・ラージャ3世は死亡し<ref>[http://www.royalark.net/India/mysore4.htm Mysore 4]</ref>、孫で養子の[[チャーマ・ラージャ10世]]が藩王位を継承したが<ref>[http://www.royalark.net/India/mysore4.htm Mysore 4]</ref>、イギリスは内政権を返還することはなかった。だが、[[1881年]][[3月25日]]に先王の代より長らく[[イギリス]]に奪われていた内政権が返却され、チャーマ・ラージャ10世は藩王国の内政権を行使できるようになった<ref>[http://www.royalark.net/India/mysore4.htm Mysore 4]</ref><ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.44</ref><ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.276</ref>。
 
[[1894年]][[12月28日]]、父[[チャーマ・ラージャ10世]]が死亡したことにより、[[クリシュナ・ラージャ4世]]が藩王位を継承した<ref>[http://www.royalark.net/India/mysore4.htm Mysore 4]</ref>。
 
このクリシュナ・ラージャ4世は近代化の大切さを知っていた名君であった。首都[[マイソール]]に[[マイソール大学]]などの教育施設が開設され<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.51</ref>、 [[20世紀]]にマイソール藩王国は[[インド]]において、他の藩王国や[[イギリス]]直轄領よりも高い教育水準を誇っていた。また、[[1910年]]代には大臣[[モークシャグンダム・ヴィシュヴェーシュヴァライヤ]]を用い、自身の名を冠した[[クリシュナラージャサーガラ・ダム]]を建設するなど、灌漑事業にも乗り出した。その統治期間の間、平均[[識字率]]や社会発展の面ではイギリス領インドよりもずっと進んでいて、かなり近代的かつ能率の高い行政を行なっていた。
 
[[1940年]][[8月3日]]、クリシュナ・ラージャ4世は死亡し、甥で養子の[[チャーマ・ラージャ11世]]が継承した<ref>[http://www.royalark.net/India/mysore4.htm Mysore 4]</ref>。
その統治期間の間、平均[[識字率]]や社会発展の面ではイギリス領インドよりもずっと進んでいて、かなり近代的かつ能率の高い行政を行なっていた。
 
そして、[[1947年]][[8月15日]]、[[インド・パキスタン分離独立]]時、マイソール藩王国は帰属先をインドとし、その領土は[[マイソール州]]となった。[[1973年]]11月以降、このマイソール州は[[カルナータカ州]]として再編された。