「菅原孝標女」の版間の差分

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[[祐子内親王 (後朱雀天皇皇女)]]に仕え、[[長久]]元年([[1040年]])頃、[[橘俊通]]と結婚。[[寛徳]]2年([[1045年]])に一男([[橘仲俊|仲俊]])と二女をもうけたが、俊通は[[康平]]元年([[1058年]])に死去し、子供達も独立して彼女は孤独になった。このあたりで更級日記は終わっている。
 
== 『更級日記』の文学的位置・評価 ==
*作者、菅原孝標女は平安文化の全盛期に生を受け、成長とともに栄華が少しずつ崩れてゆくのを経験しており、時代的にも個人的にも少女時代が一番よかったことになる。その少女時代の思い出に感傷の涙を流し、わびしい自己をささえているという趣きのため、この日記はまさに時代の動向を反映しているといえる。この点、全盛期のさなかに成り、作者の生涯を記していることで『更級日記』と共通する『[[蜻蛉日記]]』と比較しても歴然とした違いが見られる。両日記の結末を比較してみると、『蜻蛉日記』は自分の運命を知って不可抗力の無言に入っているのに対し、『更級日記』は人生の寂寥に耐え忍び、少しばかり神秘的境地に落ち着いていると言える。描写という点で、『蜻蛉日記』はかなり写実的であり、写実に徹して象徴に入っている所も見えるが、『更級日記』は全くの印象描写である。
*もし『更級日記』にロマン精神が認められ、現実の彼方に永遠の思慕をよせているとするならば、思慕の方向は、これから創造されるものへの期待という前向きではなく、過去のかなたへの愛惜という、うしろ向きの感傷ということになる。
 
== 作品 ==