「荻野貞行」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 125.172.103.97 (会話) による版を Los688 による版へ巻き戻し
6行目:
後に師範となり、[[佐藤東洋]]、[[木村久]]ら名選手を育てたほか、[[1934年]]には評論家[[郡司信夫]]と雑誌『[[ボクシング・マガジン#ボクシング・ガゼット|ボクシング・ガゼット]]』を創刊したり、ボクシングジム設立に携わったりと、様々な面で日本ボクシング界に対する貢献は大きい。
 
[[1926年]]7月、[[渡辺勇次郎]]率いる日本拳闘倶楽部と袂を分かち「[[帝拳プロモーション|帝国拳闘会拳道社(現・帝拳)]]」として設立。会長に実業家である自身の実父の親友の後の[[日本ボクシングコミッション]](JBC)初代コミッショナー[[田邊宗英]]、師範に荻野、助師範に[[佐藤東洋]]、[[滝沢吉助]]、[[吉本武雄]]、マネージャーとして後に会長となる自身の立教同級生で同い年の親友([[本田明彦]]の実父)[[本田明]]が参加し、後に15歳の少年[[小坂照男]]をスカウト。
 
その端正なマスクから、映画の主演も果たしている(1926年製作『鉄腕』蔦見丈夫監督)。