「トスカーナ大公国」の版間の差分
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メディチ家時代の第1期([[1434年]]から[[1494年]])は[[コジモ・デ・メディチ]](治世:1434年 - 1464年)に始まり、メディチ家のフィレンツェ追放により終わる。その後'''フィオレンティーナ共和国'''(Repubblica Fiorentina)が建国されたが、[[1512年]]にメディチ家が復帰し、[[1527年]]にフィレンツェ共和国が再興された。[[1530年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は[[アレッサンドロ・デ・メディチ]]を[[摂政]]に任命し、[[1532年]]にアレッサンドロはフィレンツェ公となった。その為国名を[[フィレンツェ公国]]に改めた。
[[コジモ1世]]が[[1537年]]にトスカーナ公となると[[イタリア戦争]]に関わっていき、カール5世の[[スペイン]]軍と共に[[フランス]]と結んだ[[シエーナ共和国]]を攻撃し[[1555年]]に[[シエーナ]]を占領した。そして、[[1559年]]の[[カトー・カンブレジ条約]]により
[[1569年]]には[[ローマ教皇]][[ピウス5世]]により初代トスカーナ大公に任じられ'''トスカーナ大公国'''が成立した。コジモ1世から[[フェルディナンド1世・デ・メディチ|フェルディナンド1世]]までがメディチ家の絶頂期であった。その後メディチ家は[[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]](在位:[[1723年]] - [[1737年]])まで続いたが、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退の一途を辿った。ジャン・ガストーネが没すると、後継者がなくメディチ家は断絶した。ジャン・ガストーネの遺言によってトスカーナ大公国は[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]に継承された。ただし、[[神聖ローマ帝国]]にも[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家の本領]]にも含まれず、大公国とメディチ家の財産は公国政府によって管理されることとなった。 === ハプスブルク=ロートリンゲン家時代 ===
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