「アイルランド共和国 (1919年-1922年)」の版間の差分

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アイルランド共和国 ({{lang-ga|Poblacht na hÉireann}} or {{lang|ga|''Saorstát Éireann''}})<ref name=Laffan1999>{{cite book|last=Laffan|first=Michael|title=The Resurrection of Ireland|date=1999|publisher=Cambridge University Press|isbn=9781139426299|pages=350|url=https://books.google.com/books?id=zbz6p-O39aoC&pg=PA350#v=onepage&q&f=false}}</ref>は、1919年1月にイギリスからの独立を公言した革命により樹立された国家だった。<ref>{{Cite book |title=The Anglo-Irish War, 1916–1921: A People's War |last=Kautt |first=William Henry |year=1999 |publisher=Greenwood Publishing Group |isbn=978-0-275-96311-8 |page=71 |url=https://books.google.com/books?id=3e9GS8cYrWkC&pg=PA71#v=onepage&q&f=false |accessdate=12 September 2011 }}</ref><!-- 注は「。」の前で統一してください。 -->理論上は、アイルランド共和国はアイルランド島全体が範囲だった<!-- 訳し抜けあり。また、注は全て「。」の前で統一してください。以下同様。  -->。<ref>M.E. Collins, ''Ireland'', p. 252.</ref>そして、イギリスの国家の支配力は北東だけでなく[[コーク (アイルランド)|コーク]]、[[ダブリン]]そしてその他の主要な都市のほとんどにわたって存在し続けた。支配<!-- itsの訳語がまだおかしいです。 -->の始まりの日は1916年の[[イースター蜂起]]に遡る。その蜂起でアイルランドの共和主義者たちはダブリンの重要な場所を手にし、アイルランド共和国を宣言した。<ref>{{cite book|last1=Berresford Ellis|first1=Peter|title=The Celtic Revolution: A Study in Anti-imperialism|date=1985|publisher=Y Lolfa|location=Talybont|isbn=0862430968|pages=101–2|url=https://books.google.com/books?id=cfQRcvqSW7UC&pg=PA102#v=onepage&q&f=false|accessdate=30 January 2016}}</ref>
 
== 成立 ==
1916年、[[イースター蜂起]]に参加していたナショナリストの反逆者たちは、アイルランド共和国宣言を発布した。この宣言により反逆者たちは「アイルランド共和国」という一つの独立した国を設立するために主張した<!-- 「設立するために主張した」という日本語の意味がわかりません。 -->。そして、イースター蜂起の指導者たちは、人々が国の議会において選挙することが可能になるまでアイルランド共和国の臨時政府として務めることを宣言した<!-- 原文の""で囲まれた箇所が適切に「 」で囲まれておらず、日本語もわかりづらいです。 -->。イースター蜂起は大部分をダブリンにしており<!-- ここはshort-livedの訳し抜けを指摘していますが相変わらず訳されていませんし、日本語もまだおかしいです。 -->、その蜂起が起こった時には、アイルランドの一般市民の支持をほとんど得られなかった。
 
イースター蜂起の指導者たちは共和制を宣言した。[[アーサー・グリフィス]]のシン・フェイン組織は、アイルランドとイギリスの間の二つの君主制の形<!-- これは「アイルランドとイギリスの二重君主制設立を支持し」などとしてください。 -->の設立を支持し、蜂起には参加しなかった。1917年、グリフィスと[[エイモン・デ・ヴァレラ]]のもとの共和制主義者たちは、新しい[[シン・フェイン党]]という形で統合した。統合することは、1917年のアイルランドの政党の協議会で決まった。協議会で、シン・フェイン党はアイルランドの人々が好む政治の形を決める機会を与えることができるまで短期間において独立した共和国の設立を実行するだろうということから<!-- it was agreed thatの訳がおかしいです。文の構造をちゃんととって、日本語らしく訳してください。 -->賛成だった。この協定は、もしアイルランドの人々が共和制を選んだとすると英国貴族<!-- ?訳語がおかしいです。 -->は誰も君主として誘われない<!-- 「招聘されない」です。 -->だろうという状況に左右されやすいものだった<!-- subject to the condition thatの訳語がおかしいです。辞書をひきましょう。 -->。<!-- このあたりの、前回書いたコメントの部分が直っていません。-->
 
1918年の普通選挙で、多くの1916年の蜂起に参加した者も含む[[シン・フェイン党]]の急進派の候補者たちは、「シン・フェイン党は、共和国の設立を確実にすることを狙いにしている」という内容も含むマニフェストを発行した。[[議会|イギリス議会]]へのボイコットであったとも言われており<!-- この箇所の文章はit is said thatではありません。原文をよく見て訳し直し -->、その代わりに一方的に[[ダブリン]]に新たなアイルランド議会を設立した<!-- that 以下の内容はどこまでかかっていますか?また、wouldは何と何にかかりますか? -->。シン・フェイン党の候補者は105人中75人、25人は争う余地もない圧勝だった。1919年の1月21日にシン・フェイン党から立候補した27人はアイルランドの下院(ドイル・エアラン)を設立するためにダブリンのマンション・ハウス<!-- 原文で" "に入っていないところをむやみに「 でくくらないで下さい。私のコメントで「 」にくくられているところは「このように修正せよ」という意味でカギカッコでくくれという意味ではありません。 -->に集まった。35人の他の議員は、対外の敵により収監中と記録された。そして、他の4人は、外敵による国外退去中とされた。37人の他の議員は、出席していないことされた。これらは、主にのちに[[北アイルランド]]となる北部の6州からだった。<ref>[http://historical-debates.oireachtas.ie/D/DT/D.F.O.191901210004.html Roll call of the first sitting of the First Dáil]</ref>この下院会議でアイルランド独立宣言を採用した。1916年のイースター宣言のために、アイルランドの下院は、回顧的に1916年のイースターからアイルランド共和国を設立した。
 
独立宣言の発布と同日、ダン・ブリーンとショーン・トレーシーにより率いられたアイルランド義勇軍のティペラリー第三部隊の隊員が実行した[[ティペラリー州|ティペラリー]]ソロヘッドベッグでの奇襲で、[[ゼリグナイト]]の荷車の護衛をしていた王立アイルランド警備隊の二人の隊員が殺害された。この奇襲は、ドイルによる命令ではなかったが、これらの出来事の進行のせいで下院はすぐに義勇兵をアイルランド共和国陸軍として認めるように動かさざる<!-- 「動かさざる」という表現はおかしいです。「動かざる」です。 -->をえなかった。そして、このようにソロヘッド事件は宣戦布告なしの義勇軍と大英帝国の間のアイルランド独立戦争の幕開けとなった。
 
== 承認 ==
国際的な承認を得るためのデ・ヴァレラ大統領のアメリカ合衆国での努力と「共和国大使」のショーン・T・オケリーの[[ヴェルサイユ講和会議]]での努力は、失敗に終わった。オケリーは、すでに1919年4月にパリに大使館を設立していた。そして、ドクター・パトリック・マックカートンは同時期に[[ワシントンD.C.|ワシントンD.C]].に大使館を設立した。著名なアイルランド系アメリカ人からのひどい<!-- heavyの訳語がまだおかしいです。「ひどいロビー活動」というのは何だかよくわからないので百科事典としてはおかしいですよね? -->ロビー活動にも関わらず、[[ウッドロウ・ウィルソン|ウッドロウ・ウィルソン大統領]]は、英国に対し敵対したくなかったので会議でアイルランドの件をとりあげることを拒否した。ついに6月に承認を求めるアイルランドの要求は上手くいかなかったことが会議の議長の[[ジョルジュ・クレマンソー]]に伝わった<!-- 違います。授業で言いましたが、「○○したが、これはうまくいかなかった」ということです。 -->。<ref>[http://difp.ie/viewdoc.asp?DocID=13 Demand for recognition, Paris 1919]</ref>
 
== 消滅 ==
1922年1月7日の[[英愛条約]]そして、1922年10月においての[[アイルランド自由国]]の制定によりドイルは、アイルランド自由国の立憲君主制と共和国の交替<!-- まだなんだかわかりません。この状況は意味がわかりますか? -->に同意した。
 
1922年1月に臨時政府が発足したが、アイルランド共和国は解体されなかった。つまり、各機関は臨時当局の制度と平行に作動し続けていた。理論上、南部アイルランド下院に対する責任があり、[[総督|アイルランド総督]]により任命されたマイケル・コリンズが臨時政府の議長に指名された<!-- 責任があり、appointされたのは何の職責ですか?この文章ではよくわかりません。 -->。対照的に共和国の内閣は、デ・ヴァレラの辞任の後の共和国の大統領としてA・グリフィスが引き継いだ。<ref>Griffith chose to call himself "President of Dáil Éireann" but he was officially de Valera's successor as ''President of the Republic''.</ref> しかしながら、この二つの行政機関は8月までに前進的に合併したのだった。グリフィスとコリンズの死の後に[[ウィリアム・トマス・コスグレーヴ]]が同時に両方の指揮をとる立場を引き継いだ。そして、つまり2つの最も重要な役職は実質的に1つになった。独特な憲法の混同生じること、つまり冠指定された首相と共和国の大統領だ<!-- この文章の日本語が全くわかりません。何ですか? -->。ドイルと庶民院の両議会は様々にドイルまた暫定議会として知られている共同の議会と取り替えられるのが1922年6月16日に選ばれた<!-- 全く日本語になっていません。 -->。憲法制定会議としてこれをアイルランド自由国憲法の可決に対して新しい憲法を定めた<!-- 全く日本語の意味がわかりません。 -->。
 
1922年12月6日にアイルランド自由国の憲法を施行され<!-- 「憲法が施行され」です。主述の関係、助詞に気をつけてください。 -->、アイルランド共和国と臨時政府の両方の機関は消滅した。
 
== 脚注 ==