「天誅組の変」の版間の差分

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8月15日、堺(現在の堺市[[堺区]]栄橋町1丁の土居川沿い、当地に[[堺事件]]の碑とならんで「天誅組上陸地」の碑が建てられている)に到着した同志一行(以降、'''天誅組'''と記す)は翌16日払暁に高野街道を通って[[河内国|河内]]をめざし、[[大阪狭山市|狭山]]に入った。天誅組は吉村らを軍使として[[狭山藩]]の[[陣屋]]へ送り、先代藩主で隠居の身であった[[北条氏燕]]との面会を申し出た。氏燕は急病と偽って面会を断り、[[家老]][[朝比奈縫殿]]が代って対応する。忠光は朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じた。対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組に[[ゲベール銃]]など銃器武具を贈り、天皇親征の節には加わる旨を回答する。天誅組は[[下館藩]]の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させている。天誅組は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、士気を高めた。
 
17日、天誅組は河内檜尾山観心寺に入る。軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。幕府[[天領]]の[[五條市|五条]]に到着した天誅組は、[[代官所]]を襲撃することを決める。代官所を包囲した天誅組は[[代官]][[鈴木正信(通称源内)]]に降伏を要求。ゲベール銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村が率いる[[槍]]隊が裏門から突入した。代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木正信と下僚らは殺害される。天誅組は代官所を焼き払い、[[桜井寺 (五條市)|桜井寺]]を本陣に定めた。
 
18日、天誅組は鈴木正信を梟首し、五条を「天朝直轄地」と称して、この年の[[年貢]]を半減することを宣言する。天誅組は忠光を主将、吉村、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、自らを「'''御政府'''」または「'''総裁所'''」と称した。近隣の[[高取藩]]に[[那須信吾]]らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。一方、天誅組の挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく[[平野国臣]]を使者に送った。