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Ksodi (会話 | 投稿記録)
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しかし、我々の外部に客観として[[知覚]]される現象、つまり「犬」や「橋」のように目で見られ、手で触ることもできる客観についてこれは当てはまるが、それに当てはまらない例である人間の[[感情]]を表す語については事情は異なる。たとえば日本語の「あはれ」という語や、フランス語の「ナイーヴ」といった語の微妙なニュアンスを、他国の語にニュアンスを変えず翻訳するのは困難である。ゆえに、概念が客観性を得ることができるのは知覚すなわち抽象化を経る前の直接的認識が前提であり、単なる概念を媒介した抽象的認識で知識が増えるわけではない。
 
さらに、「同一の概念を表す様々な言語の言葉は同じことを意味する」という説明の仕方は、概念がただ単独にそれぞれの言語に対応するかのような誤解を招くが、実際はそうではない。「犬」と「dog」が同じ意味を持ちうるのは、我々の視覚や聴覚に直接に表れる客観としての犬が共通に認識されるからであって「概念がある意味で言語とは独立したものである」のではなく、直接的認識(知覚)が、地域による言語体系とは無関係に客観として独立して存在しているからであろう。絵画や音楽といった、概念を経ない認識による作品が、言語体系とは独立して普遍性を得るのも、このことによる。そうであれば「概念は意味の担い手である」と言うのは間違いである。概念が意味を持ちうるためには、概念が客観世界、つまり視聴覚や触覚に具体的な世界に現れるものに対応していることが必要であるから、意味を担っているのは直接的な認識であって、概念による単なる抽象的認識でない。さらに、もしも「概念がある意味で言語とは独立したものである」というのが真実であれば、言語は概念の組み合わせではないことになってしまい、この説明は破綻している。それは「犬」や「魚」といった言葉が、概念とは別のものであると言うのと同じであろう。さらに補足すると「4本足であり、尻尾があり、哺乳類であるといった概念としての犬に当てはまることは個々の犬すべてに当てはまる」ということが真であるのは、現実の知覚に表れる大多数の犬が、随時そのような特徴を備えているため経験的にそう言えるのであって、そのような直接的知覚に表れる現象とは関わりなくこのことが真である、というわけではない。もしもこの命題が経験に依存せずに普遍的に真であれば、事故で足と尻尾を失った犬を実際に見た時、我々がそれを犬だと考えないはずであるが、実際はそうではなく、知覚に現れた生物を、経験と照らし合わせてそれを犬だと瞬時に判断する。つまりカント的述語で言えば、この犬の例のような総合判断が真であり得るためには、経験によって根拠を得なければならない。ゆえにこれはア・ポステリオリな判断であって、概念による認識だけでこのような綜合判断を得ることはできない
 
== 名辞 ==