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== 来歴・人物 ==
熊本県水俣市生まれ。水俣小学校、熊本県立熊本中学校(現[[熊本県立熊本高等学校]])から、大阪府立浪速高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学、兵役を挟んで、1948年9月卒業。大学院に進学し、京都府立亀岡高校、京都府立洛北高校で教員もした。1952年11月に名古屋大学文学部助手(主任:宇都宮清吉)となった。助教授、教授と昇任し、[[川勝義雄]]らと中国中世史研究会を組織して盛んに研究を行ったが、病を得て、右足を切断、義肢となった。1973年「隋唐帝国形成史論」で京都大学[[文学博士]]。
[[名古屋大学]]教授から、1979年11月[[京都大学]]文学部教授(併任、1980年4月専任)、1989年3月定年退官、4月より[[龍谷大学]]文学部史学科教授(1997年3月まで)。1994年河合文化教育研究所主任研究員。[[北京大学]]・[[武漢大学]]・[[北京師範大学]]客員教授。<ref>谷川道雄「自述蹣跚六十年-階級・共同体・国家-」中国-社会と文化.22号,2007.6、森正夫「谷川道雄先生を偲んで」東方学.127輯,2014.1、五條市立民俗資料館「中国の「中世」を規格しようとした人々:内藤湖南・宇都宮清吉・川勝義雄・谷川道雄」2014.10、により記述</ref>
{{出典の明記|section=1|date=2013年6月|ソートキー=人2013年没}}
[[内藤湖南]]・[[宮崎市定]]・宇都宮清吉の流れを汲む[[京都学派]]の一人であり、[[川勝義雄]]と共に[[魏晋南北朝時代]]の[[豪族]]・[[貴族 (中国)|貴族]]を理解する上で[[豪族共同体]]論を展開。これらを[[封建制|封建地主]]勢力であるとし、この時代を[[中世]]であると主張。宮崎とは若干、考えが異なり、豪族論自体は宇都宮の理解を継承・発展させたものである。始め[[前田直典]]、[[西嶋定生]]、[[堀敏一]]らと時代区分論で論争を行った
 
共同体論を巡っては、方法論が異なり、官僚制に主軸をおいて理解しようとする[[矢野主税]]・[[越智重明]]と激しく論戦した。ただ事実上、中世説の論理的補完は川勝義雄がおこなっており、矢野等の批判対象も川勝であった。なお矢野・越智は特に時代区分論争に関ること、或は論争自体に消極的であり、谷川・川勝を批判しても、特に古代説を展開することはなかった。
 
名古屋大学で文学修士となった、[[東京大学]]教授の[[溝口雄三]]とは溝口の修士論文の口頭試問に参加して以来親しく、溝口が東大中国学会を発展させて[[中国社会文化学会]]として、東大のみならない、全国組織の学会に拡大したが、シンポジウムに谷川を迎え、会員に引き込み<ref>シンポジウム「欲望・規範・秩序」における谷川本人の弁「会員になる決意をしたところです」</ref>、谷川は後に会長も務めた。溝口としては全国組織としての中国社会文化学会を定着するためには京都の学者を引き入れる必要があり、谷川は格好の標的だったともいえるが、その谷川をある種の外様とせず、会長に祭り上げたところに学会の健全性をうかがうことが可能である。
 
水俣小学校では、石牟礼弘と同級で、その妻の[[石牟礼道子]]も少し下で、谷川の家で遊んだという。<ref>谷川道雄「同窓石牟礼夫妻」『花を奉る:石牟礼道子の時空』(藤原書店,2013)</ref>
 
[[2013年]][[6月7日]]、[[腎不全]]のため死去<ref>[http://www.asahi.com/obituaries/update/0610/OSK201306100028.html 京大名誉教授の谷川道雄さん死去] 朝日新聞 2013年6月10日</ref>。87歳没。