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'''紀 末成'''(き の すえなり、[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]]) - [[天長]]2年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[826年]][[1月15日]]))は、[[平安時代]]期の[[貴族]]。[[大納言]]・[[紀古佐美]]の九男。子に安麻呂・安根がいる。[[官位]]は[[従四位|従四位上]]・[[越前国|越前]][[国司|守]]、[[贈位|贈]][[正四位|正四位上]]。
 
== 経歴 ==
幼い頃から理解が早くて賢く、書籍を博覧していた。[[延暦]]19年([[800年]])20歳にして仮に[[式部省|式部丞]]に抜擢され、これは異例のことであり、当時の議論となったが容認された。
 
[[弘仁]]元年([[810年]])[[薬子の変]]が発生している最中に[[従五位|従五位下]]に叙せられる。のち、[[伊予国|伊予]][[#国司|伊予介]]・[[出雲国#国司|出雲]]・[[常陸国#国司|常陸]]・[[大和国#国司|大和]]・[[越前国#国司|越前]]と地方官を歴任する。越前守在任中には、同国の[[加賀郡 (加賀国)|加賀郡]]について[[国府]]から遠く往還に不便で[[郡司]]や[[郷長]]が不法を働いても民が訴えることができずに逃散する、国司の巡検が困難との理由を上げ、建国の提案を行っている。これを受けて弘仁14年([[823年]])3月に[[太政官]]は[[太政官|符]]を下して越前国のうち加賀郡・[[江沼郡]]の二郡を分割して[[加賀国]]を建てて[[中国 (令制国)|中国]]とした。なお、この間に<ref>『日本後紀』弘仁1014([[8193月1日条</ref>。また同]])従五位上12月昇叙されるなど累進し、[[天長大雪]]元年(により加賀国と[[824年平安京]]との往還が不能となったことから、存問渤海客使が停止され、代わり加賀守の末成が[[従四位|従四位上渤海使]]に至っの慰問を担当し<ref>『日本後紀』弘仁14年12月8日条</ref>
 
なお、この間に弘仁10年([[819年]])従五位上、弘仁12年([[821年]])[[正五位|正五位下]]に昇叙されるなど、[[嵯峨天皇|嵯峨]]朝末にかけて順調に昇進し、[[淳和天皇|淳和]]朝の[[天長]]元年([[824年]])には[[従四位|従四位上]]に至った。
天長2年12月4日([[826年]]1月15日)卒去。享年45。最終官位は越前守従四位上。即日[[正四位|正四位上]]を[[贈位|追贈]]された。
 
天長2年12月4日([[826年]]1月15日)[[崩御#卒去|卒去]][[享年]]45。最終[[官位]]は越前守従四位上。即日[[正四位|正四位上]]を[[贈位|追贈]]された。
 
== 人物 ==
地方官を長く務めたが、首尾良く務め上げたとして知られた。しかし、一方でその名声には実が伴っておらず、長きを絶ちて短きを以て継ぐといったやり方で辻褄合わせをするような所があったという<ref name="z">『[[日本後紀]]』天長2年12月4日条</ref>。
 
== 官歴 ==
『[[六国史]]』による。
*時期不詳:[[正六位|正六位上]]
*[[大同 (日本)|大同]]5年([[810年]]) 9月10日:[[従五位|従五位下]]
*時期不詳:[[伊予国#国司|伊予介]]。[[出雲国#国司|出雲守]]。[[常陸国#国司|常陸守]]。[[大和国#国司|大和守]]。
*[[弘仁]]10年([[819年]]) 正月7日:従五位上
*弘仁12年([[821年]]) 日付不詳:[[正五位|正五位下]]
*時期不詳:[[従四位|従四位下]]
*弘仁14年([[823年]]) 12月8日:見[[越前国#国司|越前守]]
*[[天長]]元年([[824年]]) 6月28日:従四位上
*天長2年([[825年]]) 12月4日:[[贈位|贈]][[正四位|正四位上]]
 
== 系譜 ==
== 系譜<small><ref>鈴木真年『百家系図稿』巻9,上司</ref></small> ==
*父:[[紀古佐美]]<ref name="z" />
*母:不詳
*妻:不詳
**男子:紀安麻呂<ref name="hkk">鈴木真年『百家系図稿』巻9,上司</ref>
**男子:紀安根<ref name="hkk" /> - 子孫は[[手向山八幡宮|東大寺八幡宮]][[神主]]・[[上司氏]]
 
== 脚注 ==