「アストラハン州」の版間の差分

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18世紀に入ると、ピョートル1世がアストラハンに[[造船所]]を建設。[[1704年]]には、ピョートル1世が導入した新税に反発して反政府の蜂起が発生し、当時の地方長官が処刑される事件が起こったが、軍によって鎮圧された。[[1717年]][[11月2日]]に[[ロシア帝国]]が[[アストラハン県]]を設置。[[1719年]][[11月23日]]に、[[クリミア・ハン国]]や東方の[[タタール]]([[ジュンガル]])との緩衝地帯形成を目的とする、ロシア皇帝[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へ[[ドイツ人]]の移民誘致が始まり、[[ロシア人]]や[[ウクライナ人]]、[[ドイツ人|ドイツ系]]([[ヴォルガ・ドイツ人]])の移住者に圧迫されて、カルムイク人は荒地に押しやられた。
 
[[1755年]]から[[1759年]]にかけて、清の乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を征服({{仮リンク|第2次オイラトし、[[清満州ジュンガル戦争|en|Zunghar_Khanate#The_second_Oirat-Manchu_war}})、]]が終結。疫病([[天然痘]])の蔓延でカルムイク人の父祖の地が空き地になる。[[1771年]]、ヴォルガ・カルムイク人の指導者{{仮リンク|ウバシ|ru|Убаши|de|Ubashi Khan}}は、父祖の地である[[東トルキスタン]]の[[イリ地方]]への帰還を決定した。
ところがその年は暖冬で、[[ヴォルガ川]]が凍結しなかったためヴォルガ西岸にいた半数は取り残されることになった。この取り残された人々が[[カルムイク共和国]]のカルムイク人の祖先である。このときみすみすカルムイク人たちを逃がしたロシア政府の辺境守備での無能振りと権威の失墜([[:ru:Яицкое казачье восстание (1772)|ウラル・コサックの蜂起 (1772年)]])が、2年後の[[1773年]]に[[ドン・コサック軍|ドン・コサック]]が蜂起した[[プガチョフの乱|プガチョフの大乱]]を招くきっかけとなった。