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[[File:Empress sin-jung-ik2.PNG|thumb|神貞王后の肖像画]]
'''神貞王后'''(しんていおうこう、[[嘉慶 (清)|嘉慶]]13年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]([[1809年]][[1月21日]]) - [[光緒]]16年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1890年]][[6月4日]]))は、[[李氏朝鮮]]末期の王族で第24代朝鮮王[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]の実母その父[[孝明世子]]の正妃で室。また第26代朝鮮王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の養母。
 
憲宗が即位後、父の[[孝明世子]]に翼宗の[[廟号]]を追贈したことにより、神貞王后も王后になった。また[[大韓帝国]]創建後、養子の[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]から皇后も追贈された。正式な[[諡]]号は、孝裕献聖宣敬正仁慈恵弘徳純化文光元成粛烈明粋協天隆穆寿寧禧康顕定徽安欽倫洪慶泰運昌福熙祥懿謨睿憲敦章啓祉景勳哲範神貞翼皇后である。歴代の朝鮮王后の諡号の中で最も長い。実家は[[豊壌趙氏]]で、父は[[趙万永]](豊恩府院君)、母は徳安府夫人宋氏。高宗が即位する際、高宗の実父[[興宣大院君]]とともに高宗擁立に大きな役割を果たした。
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純元王后が[[咸豊]]7年([[1857年]])に死去すると、神貞王后は再び大王大妃の称号を手にした。[[同治]]2年([[1863年]])に哲宗も後嗣なしで薨去すると、当時大王大妃で朝鮮王室の最高大人だった神貞王后は李{{Lang|ko|昰}}応(後の興宣大院君)と謀議して、李{{Lang|ko|昰}}応の次男である命福([[高宗 (朝鮮王)|高宗]])を自身と孝明世子の養子にすることで、朝鮮王に即位させた。
 
高宗即位後は、高宗の母(大王大妃(高宗の母)として、影響力を保持した。また、高宗のを自分の実家である豊壌趙氏から出そうとしたが、興宣大院君の反対に遭って失敗した。
 
[[1890年]][[4月17日 (旧暦)|4月17日]]、83歳で[[景福宮]]興福殿において死去した。