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'''申包胥'''(しん ほうしょ)は、[[春秋時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の政治家・[[公族]]。[[姓]]は'''羋'''、[[氏]]は'''
== 生涯 ==
=== 友への諫言 ===
伍子胥が楚にいた頃、友人として親しく交遊したが、[[紀元前522年]]、子胥の父兄が主君の平王により誅殺される事件が起きる。復讐をする
後に呉の将軍となった伍子胥は、[[紀元前506年]]の[[柏挙の戦い]]([[:zh:柏舉之戰|zh]])において楚を陥れ、すでに死去していた平王の墓を暴き、屍を三百回鞭打った。
この苛烈な所業に対して、山中に逃れていた包胥は人を遣わし問いただした。
:「君の復讐はなんと酷い事か。私は聞いた事がある、一時の凶暴が天に勝とうとも、天が定まればいずれ破られると。君はかつては北面し、平王に仕えた身だ。その屍を辱めるとは、いずれ天が定まれば、人の凶暴など長くはないのではないか
この詰問に対して子胥は「日が暮れて道が遠い、故に倒行してこれを逆施するのみだ
=== 楚を救う ===
伍子胥の復讐は、平王の後を継いだ昭王にも向けられ、その行方を捜していた。その間に包胥は秦に援軍を頼むべく[[哀公 (秦)|哀公]]の宮殿に奔った。
昭王の母は[[秦]]の公女という間柄にも関わらず、秦の哀公は援軍を断る。これに対し、包胥は大いに嘆き、七日七晩、何も食べず、飲まずに泣き続けた。
その様子に心を打たれた哀公は、「楚は無道だがこのような忠臣がいるのであれば滅ぼすべきでない」として、戦車五百を投入した。翌[[紀元前505年]]、秦の援軍は呉を破り、呉の内紛もあって、ついに楚は呉を退ける事に成功した。
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