「セシル・B・デミル」の版間の差分

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『[[十誡 (映画)|十誡]]』(1923年)制作前後、デミルの作風は再度転換期を迎えた。[[旧約聖書]]という固い主題の作品を扱えば、そのような世論の動きが鎮まるのではないかと映画製作へ踏み切った。しかし、デミルの豪華主義は相変わらずで、映画会社の製作資金を湯水のようにつぎ込んだ。劇中では3千人もの人員や何千頭もの[[家畜]]をエキストラとして動員し、[[モーゼ]]が[[紅海]]の海水を割るシーンの派手さは後々までの語りぐさとなるほどであった。
 
予想に反してこの映画がヒットし制作費を超える収益をあげたデミルは、続けて『キング・オブ・キングス』 (1927年)、『暴君ネロ』(1932年)、『クレオパトラ』(1934年)など一連の歴史ものを制作し、次々と成功を収めていく。この頃[[マスメディア|マスコミ]]は、社内で大勢の側近を従え、[[絹|シルク]]の[[シャツ]]に[[乗馬]]用のブーツをはき(写真参考)気障に決めたスタイルのデミルを揶揄し、デミルの所属する[[パラマウント映画|パラマウント・スタジオ]]を'''「デミル[[王国]]」'''とも呼んだ。[[1927年]][[5月11日]]に設立された「[[映画芸術科学アカデミー]]」の[[映画芸術科学アカデミー#36名の創立会員|36名の創立会員]]の1人としても名を連ねている。
 
次にデミルの作風が転換したのは、西部開拓史を舞台とする作品を撮り始めた1930年代後半である。この頃の『平原児』(1937年)や『[[大平原 (映画)|大平原]]』(1939年)などの作品は、[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]における戦雲たれ込める中、揺れ動くアメリカの世情を反映し、アメリカ国民の愛国心を鼓舞することを意図した作品群と位置付けられる。また、「老い」を迎えようとするデミルの製作姿勢の変化を印象付けた。