「クレメンス6世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''クレメンス6世'''(Clemens VI、[[1291年]] - [[1352年]][[12月6日]])は、[[アヴィニョン捕囚]]の時期の[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1342年]] - 1352年)。
 
== 生涯 ==
フランス出身の貴族で、本名は'''ピエール・ロジェ'''(Pierre Roger)。教会の組織機構を整備させた一方、[[ナポリ王国|ナポリ女王]]兼[[プロヴァンス]]女伯[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ]]から[[アヴィニョン]]市を買い取り([[1348年]])<ref>代金は8万フローリン金貨。かなりの安値とされるが、その授与さえなされなかったという噂がその後何年も続いた。また、これに先立つ1348年3月、彼はハンガリー王子アンドラーシュ暗殺に関わる裁判でジョヴァンナに無罪判決を下している。『黒死病 ペストの中世史』ジョン・ケリー著、野中邦子訳、中央公論新社、2008年、p.215</ref>
、前教皇[[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]]が始めた[[アヴィニョン教皇庁|教皇庁宮殿]]の建設などを行った為財政状況は悪化したという(なお、アヴィニョンは[[フランス革命]]まで教皇領として続く)。教皇庁建設には各地から画家らが集まり、[[国際ゴシック]]様式の普及に一役買った。
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[[1346年]]、[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の代から対立している[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]を廃位、[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]を皇帝に擁立した。1350年の聖年には多くの巡礼者がローマを訪れたが、教皇がローマに赴く事はなかった。アヴィニョン捕囚が終わる時期は[[1370年]]にクレメンス6世と同名の甥が[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]に選出、ローマへ帰還した[[1377年]]である。
 
なお、1348年1月頃からアヴィニョンは[[ペスト]]禍にさらされており、この間彼は、新しい墓地のための土地を買い入れ、瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探る為に医師による死体[[解剖]]を許可し、ユダヤ人迫害を弾劾する勅書を出した。しかし為すすべなく、同年5月にはエトワール・シュル・ローヌ(現ローヌ=アルプ地域圏、ドローム県。アヴィニョンより北北東)に避難した。<ref>『黒死病 ペストの中世史』ジョン・ケリー著、野中邦子訳、中央公論新社、2008年、p.216</ref>
 
== 脚注 ==
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[[Category:1291年生]]
[[Category:1352年没]]
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