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== 歴史 ==
=== 社会人プロレスリング連盟 ===
[[SWS]]崩壊後に元、同団体の所属選手であった[[谷津嘉章]]が設立旗揚げした団体で、[[1993年]][[8月21日]]、[[群馬県]]・[[桐生市民体育館]]にて旗揚げ興行を行った
 
元々のコンセプトは仕事の余暇を利用してプロレスを開催する行おうというものであり、そのため旗揚げ当初はプロレスラーだけでなく社会人や学生にも門戸を開いてき、1部をプロレスラー、2部は[[学生プロレス]]の現役やOB、社会人プロレスなどの[[アマチュア]]、第3部は素人と別れてカードを組んでいた。谷津自身も当時群馬県で中古車販売業を営んでいたため、SWS時代から谷津と行動をともにしていた[[仲野信市]]がコーチを勤め結果によっては上の部にランクアップするシステムとなっていた。そのため興業は土日限定で行われ2部3部は会員制となっていた。またこの団体でデビューした[[KAMIKAZE (プロレスラー)|丸山昭一]](現:KAMIKAZE)、[[仮面シューター・スーパーライダー|ホッパーキング]](現:スーパーライダー)なども社会人として働くかたわらプロレスを行っていた。後に第2部に上がっていた多くの者がプロレスラーとしてデビューしたことからアマチュアの社会人プロレス学生プロレス出身者にプロとしての門戸を開くきっかけを与えた団体の1つともいえる。
[[1993年]][[8月21日]]、[[群馬県]][[桐生市]]の[[桐生市民体育館]]で旗揚げ戦を開催。
 
ただ「プロとアマチュアを一緒のリングに上げるのはどうしたものか」という批判やプロレスラーの危険な大技を素人が使う事の危険性も考慮し(実際に[[パワーボム#ライガーボム|ライガーボム]]等の大技を出したアマチュア選手もおり、以前は[[YouTube]]などの動画サイトでみることが出来た)、プロレスマスコミは2部及び3部の試合は扱わないという結論に至った。また2部3部の選手が、もし試合中に怪我をした場合は一切の保障をしないと言う事も「無責任ではないか?」と云う意見が出るなど批判が相次いだ。
元々のコンセプトは仕事の余暇を利用してプロレスを開催するというものであり、そのため旗揚げ当初はプロレスラーだけでなく社会人や学生にも門戸を開いて1部をプロレスラー、2部は[[学生プロレス]]の現役やOB、社会人プロレスなどの[[アマチュア]]、第3部は素人と別れてカードを組んでいた。谷津も当時群馬県で中古車販売業を営んでいたため[[仲野信市]]がコーチを勤めて結果によっては上の部にランクアップするシステムとなっていた。そのため興業は土、日限定で行われて2部と3部は会員制となっていた。またデビューした[[KAMIKAZE (プロレスラー)|丸山昭一]](現:KAMIKAZE)、[[仮面シューター・スーパーライダー|ホッパーキング]](現:スーパーライダー)なども社会人として働くかたわらプロレスを行っていた。後に第2部に上がっていた多くの者がプロレスラーとしてデビューしたことからアマチュアの社会人プロレスと学生プロレス出身者にプロとしての門戸を開くきっかけを与えた団体の1つともいえる。
 
そのコンセプトから主に谷津の働く群馬を中心とした関東で興行を行っていたが前述の理由でプロレスマスコミがほとんど取り扱わなかったことやトップの谷津自身にスターとしての華がなかったことから観客動員は伸び悩んだ。さらに中古車販売業もうまくいかなくなったことから谷津は仲野とともに[[新日本プロレス]]や[[平成維震軍]]自主興行に参戦するようになりSPWFと距離を置くようになった。その結果、当時事務局長を務めて団体を切り盛りしていた[[高田龍]]が[[1994年]]8月に退。高田を慕っていた所属選手レスラーの[[茂木正淑]]、[[KAMIKAZE (プロレスラー)篠眞一|神風覆面太郎]]、[[三浦博文]]、[[篠眞一|覆面太郎]]神風らも谷津に反発して退団した。彼らは[[1995年]][[3月31日]]に[[レッスル夢ファクトリー]](夢ファク)を旗揚げする。レッスルファクでデビューした[[富豪富豪夢路|藤崎忠優]]、[[死神怨霊 (プロレスラー)|死神怨霊]]、[[怨霊死神 (プロレスラー)|怨霊死神]]、[[コスモ☆ソルジャー]]、藤崎忠優(後の[[富豪富豪夢路]])などは第2部にあがっていた選手レスラーである。
ただ「プロとアマチュアを一緒のリングに上げるのはどうしたものか」という批判やプロレスラーの危険な大技を素人が使う事の危険性も考慮して(実際に[[パワーボム#ライガーボム|ライガーボム]]等の大技を出したアマチュア選手もおり、以前は[[YouTube]]などの動画サイトでみることが出来た)マスコミは2部と3部の試合は扱わないという結論に至った。また2部と3部の選手が、もし試合中に怪我をした場合は一切の保障をしないと言う事も「無責任ではないか?」と云う意見が出るなど批判が相次いだ。
 
そのコンセプトから主に谷津の働く群馬を中心とした関東で興行を行っていたが前述の理由でマスコミがほとんど取り扱わなかったことやトップの谷津にスターとしての華がなかったことから観客動員は伸び悩んだ。さらに中古車販売業もうまくいかなくなったことから谷津は仲野とともに[[新日本プロレス]]や[[平成維震軍]]の自主興行に参戦するようになりSPWFと距離を置くようになった。その結果、事務局長を務めて団体を切り盛りしていた[[高田龍]]が[[1994年]]8月に退社。高田を慕っていた所属選手の[[茂木正淑]]、[[KAMIKAZE (プロレスラー)|神風]]、[[三浦博文]]、[[篠眞一|覆面太郎]]も谷津に反発して退団。彼らは[[1995年]][[3月31日]]に[[レッスル夢ファクトリー]]を旗揚げする。レッスル夢でデビューした[[富豪富豪夢路|藤崎忠優]]、[[死神 (プロレスラー)|死神]]、[[怨霊 (プロレスラー)|怨霊]]、[[コスモ☆ソルジャー]]などは第2部にあがっていた選手である。
 
=== スーパープロレスリング連盟 ===
谷津は事務所を[[東京都]]に移し同時に2部3部を廃止した。団体名も『[[社会人]](Social)のSから『[[スーパー]](Super)のSに名称を変更し純粋にプロのみの試合となる。谷津は新日本プロレスからフェードアウトしたため主に[[関東地方]]SPWFの興行を続けた。後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]南部テリトリーより独自のルートで、大型選手レスラーを多数呼んで[[よび、日本]]全国を巡業するスタイルとなる。[[高木功|嵐]]と[[大刀光電右エ門|大刀光]]のチームコンボイ、[[矢口壹琅]]が率いる『神格闘十字軍』との抗争が中心となり、怪奇派レスラーも登場。[[ターザン後藤]]との電流爆破デスマッチなども行った
 
[[1997年]]7月、女子部門を設立して初の現役女子校生レスラーの[[千春 (プロレスラー)|千春]]をデビューさせるなど、それなりに話題にはなった。
 
[[19981997]]7月、[[千葉県]][[長生郡]][[一宮町]]道場は女子部設立発足後に[[阿部拓巳]](初の『:超人勇者Gヴァリオン)、役女子校生レスラー』[[増田圭祐]]、[[猪熊裕介]]がデビュ千春 (プロレスラ。また[[IWA・JAPAN)|I.W.A.JAPAN]]の[[宇和野貴史千春]]を誕生させるなど[[西山秀紘]]、[[岸勝也]]が所属のまま道場それなり入門話題にはなったしかし翌1998年11月、現役大学生レスラーとして活動していた千春がSPWFに、当時参戦していた[[NOSAWA論外|野沢一茂(現[[NOSAWA]](現:NOSAWA論外)と結婚して妊娠6ヶ月であることを発表。妊娠を知っていながら8月までリングに上がっていた千春自身、団体であるSPWFの管理の甘さが問題となった。1999年6月を最後に女子選手は全て退団。その後も応募は続いたが、2001年に最後の女子練習生が辞めたため、女子部は消滅する
 
1998年7月には[[千葉県]][[長生郡]][[一宮町]]に道場を設立。後に[[阿部拓巳]](現:超人勇者Gヴァリオン)、[[増田圭祐]]、[[猪熊裕介]]などの若手がデビューする。また[[IWA・JAPAN]]の若手レスラーである[[宇和野貴史]]、[[西山秀紘]]、[[岸勝也]]なども所属のまま道場へ入門する。
[[1999年]]6月、所属女子選手が全員退団。
 
2002年11月、代表の谷津が、弟子であり団体No.2兼道場長だった[[高智政光]]や宇和野貴史を連れて[[WJプロレス]]へ移籍。残された若手たちが、月1回の道場マッチを中心として活動を続けることになる。この頃、谷津時代のSPWFのオフィシャルページ(これは現在でも残っている)と、残されたレスラーたちによるSPWFのオフィシャルページの両方が併存しており、裏では相当の内紛が有ったのではないかと思われる。
[[2001年]]、最後の女子練習生が辞めたため女子部門は消滅。
 
谷津は2003年のWJプロレス退団時、SPWF復帰を宣言したが、SPWFには上がっていない。
[[2002年]]11月、谷津が[[高智政光]]と宇和野貴史を連れて[[WJプロレス]]に移籍。残された所属選手は月1回の道場マッチを中心として活動を続けることになる。
 
=== 解散 ===
[[2006年]][[4月22日]]、[[U-FILE CAMP#西調布格闘技アリーナ|西調布格闘技アリーナ]]大会で残って活動を続けていた超人勇者Gヴァリオンらほとんどの選手スタッフが退団。事実上活動停止なった。2006年8月、最後の所属選手レスラーであった増田圭祐によって最後の道場マッチかれた。この道場は2006年6月より[[西村修]]が借りるようになり、後に[[ドラディション|無我ワールド・プロレスリング]]の道場として使われた
 
[[2010年]]11月、谷津の引退により伴い、その引退興行をSPWF解散式も兼ねて開催して行い、SPWFは完全に消滅した
 
[[2011年]][[2月9日]]、を以ってSPWF道場が解体された<ref>[http://x1japan.wordpress.com/2011/02/09/spwf%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E4%B8%80%E5%AE%AE%E9%81%93%E5%A0%B4%E8%A7%A3%E4%BD%93%E5%BC%8F/ SPWF上総一宮道場解体式] Woishin Journal</ref>。
 
== 所属選手 ==