「不条理演劇」の版間の差分

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カミュは、人間は不条理な存在であるとした(『シジフォスの神話』[[1942年]])。先述の評論家マーティン・エスリンは、不条理な人間存在を描く劇作家達の作品や活動を、カミュの論を元に不条理演劇と名付けた。しかしエスリンは、カミュやサルトルの戯曲が内容は人間存在の不条理を描きながら形式ではリアリズムの演劇などと同様の伝統的台詞劇であったのに対して、イヨネスコやベケットらの作品は形式も台詞劇を破壊しており内容と形式が一致していると指摘し、カミュ、サルトルらに対して新しさがあるとした。
 
[[アルフレッド・ジャリ]]の「[[ユビュ王]]」(1888年)が不条理演劇に重大な影響を与えた
 
[[リアリズム演劇]]を含め、従来の演劇では、登場人物たちによる状況の変化を求める行動が、新たな状況を具体的に生み出し、最終的に状況が打開されるか、悲劇的な結末を迎える。このダイナミズムがストーリーの軸となっている。行動とその結果の因果律が明確な世界観と言える。
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これに対し、不条理演劇では、登場人物の行動とその結果、時にはその存在そのものが、因果律から切り離されるか、曖昧なものとして扱われる。登場人物を取り巻く状況は最初から行き詰まっており、閉塞感が漂っている。彼らはそれに対しなんらかの変化を望むが、その合理的解決方法はなく、とりとめもない会話や不毛で無意味な行動の中に登場人物は埋もれていく。ストーリーは大抵[[ドラマ]]を伴わずに進行し、非論理的な展開をみせる。そして世界に変化を起こそうという試みは徒労に終わり、状況の閉塞感はより色濃くなっていく。
 
[[言語]]によるコミュニケーションそのものの不毛性にも着目し、言葉を切りつめたり、台詞の内容から意味をなくしたりする傾向も見られる。また、舞台装置や小道具を、登場人物の心理的状況をなんらかの形で象徴するものとして扱うことも多く見られる。その好例としては、ベケットの代表作『[[ゴドーを待ちながら]]』([[1952年]])に出てくるぽつんと立つ1本の木や、別役実作品に度々登場する電信柱などが挙げられる。
 
このような手法を用いた結果、人間存在の不毛さを描きながらも、詩的で鮮やかで、時にはコミカルな世界が、舞台上に描き出されることとなった。