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|業種 = サービス業
|事業内容 = プロレス興行<br />関連企画の運営
|代表者 = 代表取締役会長 [[松永高司]]<br />代表取締役社長 [[松永国松]]
|資本金 =
|売上高 =
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== 概要 ==
[[1968年]][[6月4日]]、[[東京都]][[品川区]]の品川公会堂で旗揚げ戦を開催。テレビ中継は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]と[[FIGHTING TV サムライ]]で定期もしくは不定期放送されていた。[[2005年]][[4月17日]]、[[後楽園ホール]]の興行を最後に解散。
 
経営陣との対立から[[日本女子プロレス]]を退社した[[松永高司]]を代表に松永を慕う選手達によって設立。初代会長には[[大日本一誠会]]の会長の[[万年東一]]が就任。設立当初は[[暴力団]]と関係があるとする中傷がなされて興行のための施設借用に困難をきたした。このため興行は野外リングを設営し旅回りをすることが多かった。この時に全女を支援して、その身元を保証したのが[[デイリースポーツ]]。以降、[[1990年代]]まで全女の主だった興行には「後援・デイリースポーツ」のクレジットがなされてフジテレビによる試合中継にもデイリースポーツ記者が解説者として派遣された。また全女旗揚げ時にデイリースポーツ編集局長を務めていた[[植田信治]]は後の全女のタイトル運営機関である「全日本女子プロレスリング協会」のコミッショナーに就任。
 
興行は大都市の大会場、地方の県立体育館や市民会館、スーパーの駐車場など様々な場所で行われて最盛期には年間200を超えて300を超える年もあるなど全団体でも最多だった。[[ジャパン女子プロレス]]の旗揚げ以前は長らく国内唯一の女子プロレス団体だったため<ref>ただし1979年10月から11月の僅か1月ほどだがニューワールド女子プロレスという女子プロレス団体が存在している</ref>興行ポスターは単に「女子プロレス」と表記しておりスタッフも電話口で「はい女子プロレスです」と応対していた<ref>{{Cite web |author=須山浩継 |date=2011-05-02 |title=空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス①「はい女子プロレスです」 |url=http://www.tokyo-sports.co.jp/blogtalent-suyama/132/ |publisher=東京スポーツ |accessdate=2015-02-27 }}</ref>。
 
== 歴史 ==
* [[1968年]][[6月4日]]、[[東京都]][[品川区]]の品川公会堂で旗揚げ戦を開催。旗揚げメンバーは日本女子プロレスを離脱した奄美百合子、本堂活子、[[巴ゆき子]]、[[柳みゆき]]、山口洋子、[[吉葉礼子]]、遠藤恵子、岡田京子、[[京愛子]]、[[ジャンボ宮本]]、赤木まり子の11人にミゼットレスラー4人。旗揚げ戦にはアメリカAGWAよりメリー・ジェーン・ムル&ルシル・デュプレのチャンピオンタッグを招聘。
* [[1970年]][[10月15日]]、[[京愛子]]が[[WWWA世界シングル王座]]獲得。
* [[1971年]][[6月30日]]、京愛子と[[ジャンボ宮本]]を初代[[WWWA世界タッグ王座]]に認定。
* [[1973年]]5月、[[後楽園ホール]]に初進出。
* [[1975年]]、[[万年東一]]が会長が辞任。社長の[[松永高司]]が、その跡を受ける。
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* [[1979年]]3月、[[トミー青山]]と[[ルーシー加山]]のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
* 10月、日米対抗リーグ戦開催
* [[1980年]][[7月1日]]、2リーグ制がスタート。A班にジャッキー佐藤、横田利美(後の[[ジャガー横田]])、[[ミミ萩原]]らが所属。B班にはナンシー久美、ルーシー加山、[[佐藤ちの]]らがいた。(2リーグ制は翌年の6月には廃止された)。
* [[12月15日]]、全日本シングル王座が創設され、横田利美が初代王座獲得。
* [[1981年]][[2月25日]]、横田利美がジャッキー佐藤に勝利してWWWA世界王者となった。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
* 12月、ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、[[デビル雅美]]の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
* [[1983年]][[5月7日]]、ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチで[[パンテラ・スレーニャ|ラ・ギャラクティカ]]に敗れ王座から転落。
* 8月、[[長与千種]]と[[ライオネス飛鳥]]がタッグチーム「[[クラッシュギャルズ]]」を結成。
* 12月、「全日本女子プロレス大賞」を創設。[[1996年]]まで続いた。その後Lady'sゴング(→Lady'sリング→[[RINGSTARS]])に引き継がれ、現在は「RINGSTARS女子プロレス大賞」となっている。
* [[1984年]]8月、クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
* [[1985年]][[3月15日]]、第1回「[[ジャパングランプリ (全日本女子プロレス)|ジャパングランプリ]]」が開幕。
* [[7月8日]]、新社屋が完成。
* 8月、長与対[[ダンプ松本]]の敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与千種はリング上で丸坊主となった。
* [[8月25日]]、第1回「[[タッグリーグ・ザ・ベスト]]」が開幕。
* [[1986年]]3月、[[山崎五紀]]と[[立野記代]]の[[ジャンピング・ボム・エンジェルス|J.B.エンジェルス]]が「CHANCE」で歌手デビュー。
* [[4月5日]]、「女人禁制」の[[両国国技館]]に初進出。
* 11月、長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
* [[1987年]]、[[埼玉県]][[秩父市]]にリングスターフィールドが完成。
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* 3月、北斗晶と[[みなみ鈴香]]の海狼組(マリン・ウルフ)が「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
* [[1989年]]、クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
* [[5月6日]]、プロレス団体として初めて[[横浜アリーナ]]興行を開催。
* [[8月24日]]、[[天田麗文]]が全日本シングル王座を獲得してジュニア・タッグと合わせた史上唯一の全日本三冠を達成。
* [[1990年]]、[[ユニバーサル・プロレスリング]]の旗揚げ興行に[[アジャ・コング]]、[[バイソン木村]]、[[KAORU (プロレスラー)|前田薫]]、[[高橋美華]]が出場。
* [[11月14日]]、[[ブル中野]]とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
* [[1991年]]1月、アジャ・コングと[[バイソン木村]]が[[ジャングル・ジャック]]を結成しブル中野・[[井上京子 (プロレスラー)|井上京子]]組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
* 11月、[[井上貴子 (プロレスラー)|井上貴子]]が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには[[豊田真奈美]]と[[三田英津子]]のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
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* 8月、[[山田敏代]]と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
* 9月、ブル中野と北斗晶がFMW[[横浜スタジアム]]大会に出場。かつての後輩である[[工藤めぐみ]]、[[コンバット豊田]]組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
* [[1993年]][[4月2日]]、横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、伝説的な興行となった。
* [[1994年]]11月、女子プロレス団体では初めて、[[東京ドーム]]で興行を行う。(『[[憧夢超女大戦]]』)空席が半分以上ある中、段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、これを機に女子プロレスブームも終焉。[[リレハンメルオリンピック|リレハンメル冬季オリンピック]]の[[フィギュアスケート]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]代表、[[トーニャ・ハーディング]]を獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。日本レスリング協会もこの興行に協力し、[[山本美憂]]、[[浜口京子]]らが出場した。
* [[1995年]]7月、[[ダイナマイト・関西]]がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
* [[1996年]][[5月18日]]、第1回「[[ジュニア・オールスター戦]]」を開催。
* [[1997年]]7月、山田敏代が[[GAEA JAPAN]]に移籍。アジャ・コングが8月の[[日本武道館]]での興行を最後に退団すると発表。この頃から、[[ロッシー小川]]や井上京子が新団体設立(後の「[[アルシオン]]」と「新日本女子プロレス(後の[[NEO女子プロレス|ネオ・レディース→NEO女子プロレス]])」)へ動き出す。
* [[8月20日]]、日本武道館での興行中に井上京子、[[玉田凛映|玉田りえ]]、[[府川唯未|府川由美]]がフリー宣言。これを端緒として経営不安が表面化する。
* [[9月12日]]、[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]跡地での興行で、経営不安に関して首脳陣が記者会見。[[田村欣子]]、[[元気美佐恵]]、[[タニー・マウス]]の3人が9月3日付で、玉田りえ、府川由美が9月5日付で、[[吉田万里子]]が9月8日付でそれぞれ退団していたことや、[[下田美馬]]、三田英津子、[[椎名由香]]、[[チャパリータASARI]]、[[遠藤紗矢|サヤ・エンドー]]の5人が9月21日の川崎市体育館大会を以って退団することを発表。この頃までに14人の選手が離脱し残留した選手を上回った。アジャ・コングらの「アルシオン」と井上京子らの「ネオ・レディース」とに別れた。
* 10月、手形不渡りによる銀行取引停止処分を受ける。同時に[[東京都]][[目黒区]][[下目黒]]の社屋の建物とリングスターフィールドの所有権は債権者へ移動したが、社屋は借用して継続使用した他、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[全日本女子プロレス中継]]』の放送が終了し、フジテレビによる中継が一時消滅。残留した選手は堀田祐美子、豊田真奈美、井上貴子、[[伊藤薫 (プロレスラー)|伊藤薫]]、[[渡辺智子]]、[[前川久美子]]、[[高橋奈苗]]、[[中西百重]]、[[藤井巳幸]]、[[脇澤美穂]]ら。一時退団していた[[納見佳容]]が再入団した他に[[IWA・JAPAN|I.W.A.JAPAN]]から[[さくらえみ|元川恵美]]がレギュラー出場し(その後、同団体の所属選手だった[[西堀幸恵]]も加わる)、「新生全女」をアピールして再出発。
* [[1998年]]7月、フジテレビにおける中継番組が「[[格闘女神ATHENA]]」として再開。
* [[1998年]]、30周年を記念興行、ビューティ・ペアなどOGが出席する。女子プロレス殿堂表彰式も行われた。
* [[2000年]]、[[つんく]]のプロデュースにより「[[キッスの世界]]」(中西百重、高橋奈苗、脇澤美穂、納見佳容)がデビュー。[[JWP女子プロレス]]との業務提携を結んだことを発表。
* [[2001年]][[12月16日]]、川崎市体育館大会で脇澤美穂が引退。脇澤に代わって[[西尾美香]]が「キッスの世界」に加わる。
* [[2002年]][[3月30日]]、「格闘女神ATHENA」が終了して地上波における全女のテレビ中継が消滅。
* [[5月2日]]、[[新日本プロレス]]30周年記念東京ドーム大会に試合提供。
* [[7月7日]]、東京・大田区体育館大会で豊田真奈美が退団表明。翌日GAEA大阪大会に現れたことで、全女-GAEA間に確執が生じる。
* [[2003年]][[5月11日]]、横浜アリーナで35周年記念興行を開催。大会後に堀田祐美子、西尾美香が退団して「Z-SPIRITS」を結成。西尾の離脱により「キッスの世界」解散。
* [[2004年]]、事務所を東京都目黒区下目黒から東京都品川区[[小山 (品川区)|小山]]へ移転。
* [[2005年]][[3月29日]]、[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]の産業振興センター体育館で開催した興行を最後に主催興行を停止。
* [[4月17日]]、後楽園ホールで最終興行(主催は[[ファースト・オン・ステージ]])を開催して会長の松永が勇退と同時に解散。解散当時の所属選手は渡辺智子、前川久美子、高橋奈苗、サソリ、[[Hikaru (プロレスラー)|Hikaru]]、[[前村早紀]]に外国人の[[アメージング・コング|A.KONG]]の7人。最終興行は2,100人を動員して怪我で欠場した高橋、Hikaruを除く所属選手に、現役のOG選手を集めて行い、引退済のOGも多数来場。
 
== 体制 ==
=== 事務所 ===
[[東京都]][[目黒区]][[下目黒]]にプロレス団体としては珍しく自社ビルを所有して2階に事務所が置かれていた。練習拠点となる道場及び選手寮もビル内にあった。[[2004年]]まで使用していたビルは[[1985年]]7月に完成。完成以前は東京都目黒区内の4階建てのビルの1階に事務所が置かれたが選手寮はそのビルの屋上にバラックで建てらてたものであった<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/womens_prores/342931/ 【長与千種連載5】地獄トレの2日目 「まさかの全員裸になれ」]東京スポーツ新聞社 2015年5月29日閲覧 </ref>。
 
ビル1階は車庫として使われていたが天井が高いこともあり沿道が歩行者天国となる日曜日に車庫内の車をすべて外に出して「ガレージマッチ」と呼ばれる興行を打ったこともある。
 
ビル内には自社で経営していた飲食店「目黒SUN族」(解散後に旗揚げされた団体「[[CHICK FIGHTS SUN]]」とは無関係)が入居しており練習生や若手選手が試合の無い日に働いていたほかイベントも行われていたが閉店後はグッズショップ「Ring Star」(全女のプログラム名と同一)となった。
 
自社ビルは[[1997年]]の経営破綻で債権者へ所有権が移転した後も賃貸料を支払いながら使用してきたが解散前年の2004年に引き払い<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/blogtalent-suyama/138/ 空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス④目黒女子プロレス砦(前編)]東京スポーツ新聞社 2015年1月13日閲覧</ref>、解散時は[[品川区]][[小山 (品川区)|小山]]のビルの一角に事務所を構えていた。移転後の自社ビルは解体され、2015年現在はコインパーキングとなっている<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/womens_prores/388964/ 電流爆破戦出陣 長与「大仁田さんの"求愛"受けた理由」] 東京スポーツ新聞社 2015年4月16日閲覧</ref>。
 
=== 松永家 ===
全女は松永家による[[同族経営|同族会社]]だった。三男[[松永高司]]を中心とする次男の松永健司、四男の松永国松、五男の松永俊国の4人で全女をしてち上げ、運営していた(長男は経営に加わらず)。また高司と国松の間の長女[[吉葉礼子]]次女山口洋子も所属選手だった。さらに松永正嗣ら兄弟の子息もスタッフに名を連ねていた。
 
兄弟には格闘技出身者が多く今で言う総合格闘技の原型に当たる柔拳興行(プロボクシングと柔道の異種格闘技対決が売り物の格闘技興行)の経験者もいる。試合に出場した次男健司は講道館を破門されている。そのことからしばしば全女では異種格闘技戦が行われた。
 
[[万年東一]]初代会長時代は高司が社長となり万年退任後は高司がその跡を継いでぎ、社長職は他の兄弟3人が持ち回りに近い形で就任していた(会社解散時は国松が社長だった)。洋子は[[1989年]]10月に膀胱がんにより50歳で俊国は[[2002年]][[9月22日]]に心不全により57歳で国松は[[2005年]][[8月17日]]に自殺により63歳で礼子は[[2008年]][[9月18日]]に肺がんにより70歳で高司は[[2009年]][[7月11日]]に間質性肺炎により73歳で、それぞれ亡くなっている。
 
同族経営が故、全日本女子プロレスリング協会コミッショナーだった[[植田信治]]は松永家と対立して全女を離れた他プロデュース責任者だった[[ロッシー小川|小川宏]](現:ロッシ[[スタ小川ダム]]社長)も全女退社後に松永家の同族経営を糾弾している<ref name="jiken2">日本プロレス事件史 Vol.2「"超絶雑居大家族"全女最後の10年」([[ベースボール・マガジン社]]、2014年)</ref>。
 
=== 来るものは拒まず ===
全女の社是は「来るものは拒まず」であった。社是に現れているように全女のスタッフになった人には事務所に直接足を運んだり会場に足を運んで会長の松永会長に直談判しかつ即決で採用に至ったスタッフが多かった他<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/blogtalent-suyama/140/ 空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス④目黒女子プロレス砦(中編)]東京スポーツ新聞社 2015年1月13日閲覧</ref>、『[[全日本女子プロレス中継]]の実況を担当していた[[志生野温夫]]やプロレスライターの[[須山浩継]]も1人で事務所を数時間留守番していたこともあった<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/blogtalent-suyama/142/ 空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス④目黒女子プロレス砦(後編)]東京スポーツ新聞社 2015年1月13日閲覧</ref>。
 
=== デビューへの道 ===
一般にはプロレス団体が募集を掛けてプロテストを行い、その合格者がトレーニングを経てそのままデビューへ進むが全女でデビューするにはオーディションとプロテストの2段階を踏む必要があった。
 
まずオーディションで候補者が篩いに掛けられ合格者してもその時点ではデビューが保障されるわけでなく、その後は候補生として入門した上で道場でトレーニングを積み、一定期間後に行われるプロテストを通過することで初めてリングデビューへの道が開かれる。そのためオーディションを通過してもプロテストで受からず退団したり複数回受けて合格に至った者もいた。
 
オーディションは[[ビューティ・ペア]]ブーム真っ只中の[[1977年]]に候補者が多数集まったため、この年に第1回を行い以来年1回実施していた。第1回合格者には[[ジャガー横田]]らがいる。[[クラッシュギャルズ]]全盛期にあった1985年は応募総数が4,000人、オーディション参加2,000人にも上り<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20131026_223676.html 女子プロレスにも美熟女旋風 井上貴子は43歳で体重10キロ減] NEWSポストセブン 2013年10月26日</ref>オーディションを通過してもプロテストで合格しなければならないため非常に狭き門だった。オーディションは、主に事務所やテレビ放映局だった[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にて実施されていた。
 
一方で中高生を対象とした練習生制度も確立させた。これは地方巡業で空いた道場を練習生に開放して様々なトレーニングを積ませるもので所定の選考は通過する必要があるものの基礎を身に付けることで選考で有利になるため、多くの練習生がプロデビューを掴むようになった。
 
今日では多くの女子プロレス団体や元全女の[[北斗晶]]が代表社長を務める男子団体の[[ダイヤモンド・リング (プロレス)|ダイヤモンド・リング]]などで、このシステムを採用している。
 
=== 外国人選手 ===
松永高司が[[子プロレス|日本女子プロレス協会]]時代より[[NWA (プロレス)|NWA]]の名義人だったため全女は当初、そのNWAのラインを利用して外国人選手を招聘。男子での[[日本プロレス]]や黎明期の[[全日本プロレス]]のように日本人対外国人を主軸としたマッチメイクを行っていた。
 
その後WWWAの管理権を得るとWWWA初代会長[[ミルドレッド・バーク]]を窓口として彼女の弟子を招聘する。[[国際プロレス]]女子部崩壊後、その弟子のひとりである[[ファビュラス・ムーラ]]が参戦してからはバークからムーラへと移りつつあった。
 
ムーラがWWF(現・[[WWE|WWF]](現:WWE)に参戦すると全女とWWFの間での相互参戦として同団体の選手が全女に来日している。またWWFと当時業務提携を結んでしていた[[ユニバーサル・レスリング・アソシエーション|LLI]]からルチャドーラも参戦した。
 
=== 地方興行 ===
全女は全国津々浦々を巡業するスタイルで体育館以外の特設リングや野外興行も多く年間250試合前後と言われた。2リーグ制を取っていた時期には両リーグ併せて305試合にも達した。これは男子とくらべてもかなり多い数である。選手の知名度のみならず緻密なスケジューリング地元とのパイプがなければ難しく既存の女子プロレス団体でこれを行えるのは全女くらいしかいなかった。ハードな巡業は選手に雑草魂を植え付けるといわれていた。現在[[IWA・JAPAN|I.W.A.JAPAN]]代表取締役社長を務めている[[浅野起州]]もかつては全女のプロモーターであった。
 
全女解散後は全女から分化した[[NEO女子プロレス]]が引き継いだがNEO女子プロレスも2010年12月に解散し実質後継たる[[ワールド女子プロレス・ディアナ]]が継承するも結局は地方興行は大幅縮小された。一方で全女の地方興行に関わったプロモーターの中にも自主興行を行う所が存在する。
 
=== 三禁 ===
[[酒]]、[[紙巻きたばこ|煙草]]、男の3つを嗜んではいけないという掟。女子レスラーが煙草、酒をたしなむ様子は風俗嬢そのものであると考えた松永兄弟が禁止させたという。また所属、全女の選手には未成年も多いことも関係している。「男が出来ると股を開くのを嫌がるしケガをすることを嫌がってファイトに精彩がなくなる」と公式に回答していた頃もある。ただし酒に関してはトップクラス選手に限り、ある程度までは黙認されていたらしい(当時、[[全日本プロレス]]の[[阿修羅・原]]が[[長与千種]]の同郷の先輩という縁で試合会場が近いときなどは女子選手を労うべく頻繁に飲み会を開いていたことを語り[[井上京子 (プロレスラー)|井上京子]]は、新人時代に先輩レスラーたちの飲み会の席へ呼ばれ同席した事を全女を退団した後インタビューで答えている)。[[北斗晶]]が[[佐々木健介]](当時[[新日本プロレス]])と結婚するに際し、この三禁の掟が焦点となったが会社に認められて北斗の結婚後の現役続行がOKになったというエピソードがある。
 
この三禁は長与が後に旗揚げした[[GAEA JAPAN]]でも採用し、そのGAEAからデビューした[[里村明衣子]]が主宰する[[センダイガールズプロレスリング]]でも入門3年は三禁としている<ref>{{Cite web|url=http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/9000/|title=女子プロレスに禁は必要です!|publisher=東京スポーツ新聞社|accessdate=2012-9-4}}</ref>。また[[2012年]]に設立された[[東京女子プロレス]]でも採用されることになった。現存する大半の女子プロレス団体では「競技に支障がない範囲」で解かれているが長らく定着していた慣習と言うこともあり[[愛川ゆず季]]のように会社の意向とは無関係に自らに三禁を課した女子レスラーは存在する<ref>{{Cite web|url=http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/womens_prores/137896/|title=引退ゆずポン 今だから話せる“3禁秘話”|publisher=東京スポーツ新聞社|accessdate=2013-7-18}}</ref>。
 
=== 25歳定年 ===
かつては「25歳(ないしは在籍10年)に達した選手は引退する」という暗黙の了解があった。理由としては世代交代を潤滑に行うためと、もし引退しても25歳くらいなら結婚や他の仕事を探す等、新しい生活が出来るだろうというフロントの考えからである。年を取り人気の落ちた選手には会社から「ポスターの扱いが小さくなる」などと有形無形のプレッシャーが掛けられ引退への道を進むこととなった<ref name="nagayo11">[http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/womens_prores/346556/ 【長与千種連載11】「結婚する」とウソとついて引退]東京スポーツ新聞社 2015年5月29日閲覧</ref>。
 
[[1993年]]にはエース格として全女を牽引する[[ブル中野]]が25歳に達したことから、その去就が注目されたが団体対抗戦の渦中だった状況もあり会社は現役続行を容認。この結果「25歳定年」は事実上はなくなった。なお全女を25歳までに退いた選手のうち数名は、フリーランスで現役続行したり新団体を旗揚げするなどしたケースも見られ[[デビル雅美]]も25歳定年制に伴い全女を退団した後フリーとして[[ジャパン女子プロレス]]に参戦していた。後にフリーランスで復帰し[[マーベラス (プロレス)|Marvelous]]代表取締役である[[長与千種]]も「結婚する」と嘘をついて引退したほどであった<ref name="nagayo11" />。
 
=== 上下関係 ===
「後輩レスラーは先輩レスラーの得意技を、その先輩が引退するまで使ってはいけない」という暗黙の了解があり、そのため選手は知恵を絞ってオリジナル技を開発し、それが各選手の個性になっていった。例外として[[1995年]]に行われた[[豊田真奈美]](昭和62年組)対[[北斗晶]](昭和60年組)戦で豊田が北斗のノーザンライトボムを2発喰らわせ勝利したケースがある。また引退する先輩レスラーが自分の後継者を指名するという意味合いもあって後輩レスラーに自分の得意技を譲るということがあった。
 
毎年のように入団する選手がいた昭和60年代以降は入団年によって昭和(平成)xx年組と分けて呼称されていたが入門希望者の減少等の要因によりそういった呼称はあまり見られなくなった。
 
=== ミゼットプロレス ===
{{main|ミゼットプロレス}}
全女では多くの興行で前座としてミゼットプロレス(全女では小人プロレスとも呼ばれた)を組み込んでおりミゼットレスラーも所属選手として抱えていた。
 
=== 格闘技戦 ===
[[1990年代]]中頃まで行われていた試合形式。格闘技戦と銘打っているが[[総合格闘技|バーリトゥード]]ではなくレスラー同士がグローブを着用し殴ったり蹴ったりする[[キックボクシング]]形式の試合である。後にレスラー同士だけでなくキックや[[シュートボクシング]]選手を招いて所属選手と対戦させている。松永兄弟がボクシングの経験者で、この形式を思いついたらしい。[[1976年]]には「世界三大格闘技戦」と銘打った興行大会が[[田園コロシアム]]で開催され池下ユミ対ピンポン・ロカムヘンの[[異種格闘技戦]]、ユカリ・レンチ対キム・メイビーのボクシング戦等が行われた。
 
一方日本初の女子総合格闘家である[[高橋洋子 (格闘家)|高橋洋子]]は全女でレスラーとして活動し後に全女のリングで総合ルールを戦って格闘家への転向に成功した。また全女時代に格闘技戦を経験した[[伊藤薫 (プロレスラー)|伊藤薫]]も[[総合格闘技]]の試合に出場しており全女解散後に設立旗揚げした[[伊藤薫プロレス教室]]は総合格闘技道場も兼ねている。さらに[[2003年]]にはデビュー前の[[夏樹☆たいよう|水嶋なつみ]](現・[[夏樹☆たいよう]])と高橋裕美(現:KAGUYA)・KAGUYA)を総合格闘技戦に出場させた。
 
=== 新たなプロレス団体設立旗揚げのサポート ===
たなプロレス団体(インディー団体)が相次いで設立旗揚げされた1990年代前半には全女はこれらのプロレス団体の設立旗揚げを支援していた。例えば旗揚げ前の[[パンクラス]]には東京目黒の道場を練習の場として提供。[[ユニバーサル・プロレスリング]]や[[W★INGプロモーション]]には[[リング_(格闘技)|リング]]の貸し出しだけでなく所属選手を派遣して対戦カード編成を補助している。このことが、それまで女子プロレスを見たことの無かった男性ファンを全女に呼び寄せブームを巻き起こすきっかけになっている。
 
=== 女子レスリング界との協力関係 ===
女子[[アマチュアレスリング|レスリング]]についても全女は[[日本レスリング協会]]と協力体制を採っていた。[[1980年代]]の旗揚げの際に女子レスリング普及に努めていたレスリング協会の[[福田富昭]](現・会長)は全女の承認を得た上でオーディションの不合格者をレスリングにスカウトし[[吉村祥子]]ら多くのトップ選手を育て上げた。一方全女も[[ジャガー横田]]がコーチに就任して練習生をレスリングの練習に参加させたり合同練習やエキシビションマッチを組んでみ、女子レスリング国内外公式戦に練習生や新人選手を派遣させるなどしていた。
 
さらに第1回[[全日本レスリング選手権大会|全日本女子レスリング選手権]]は全女とレスリング協会の合同興行として開かれた。これにより女子レスリングの知名度向上に一役買う一方、全女から参戦した多くの選手もレスリング技術を身に付けて後のトップレスラーに成長することができた。中でも[[豊田真奈美]]や[[井上京子 (プロレスラー)|井上京子]]らは国内大会優勝を経験している。また[[斉藤和枝]]や[[椿志保|中見川志保]]のようにアマチュアで活躍した選手がプロ入り後も参戦を続けるケースや、[[三田寺由香]]のように全女練習生として参加後プロにならずアマチュアの実力者となるケースもあった。
 
1990年代に入っても東京ドーム大会にトップ選手の[[山本美憂]]や新人時代の[[浜口京子]]も参加しており以降もレスリングルールのエキシビションを行った。一方で[[府川唯未]]らレスリング出身者も全女に入門した。1999年にもレスリング協会主催の「レスリングフェスティバル99」が開催され第1部でレスリング全日本選手権(全女からは[[中西百重]]が参加)、第2部で女子プロレス(全女・Jd'・ネオ)が行われた。なお全女解散後、プロアマ協調路線は[[エスオベーション]]が引き継いでいる。
 
=== テレビ放映 ===
全女が全国的人気を獲得できたのは、フジテレビによる試合中継番組の影響力も大きい。[[1975年]]からの放映開始以来全日本女子プロレス中継』『[[格闘女神ATHENA]]と引き継がれ、[[2002年]]まで長きにわたって放映されてきた。さらに試合中継を放映するにとどまらず所属選手レスラーのテレビ番組出演オリジナル楽曲発表などフジテレビの全面的バックアップで所属選手レスラーは全国的人気を獲得した。これらの施策により「女子プロレスブーム」が幾度となく起こり全女への入門希望者が激増するということも起こった。フジテレビによる中継終了後も、解散まで[[お台場]]のフジテレビ社屋で興行が行われるなど、全女とフジテレビの関係は維持されていた(後にリング横幕からはフジテレビの名前は外され最末期のリング横幕スポンサーは[[アダルトビデオ|AVメーカー]]である[[ソフト・オン・デマンド]]であった)。
<!--この項にも当初間違った記述がされていたが1968年から1970 - 70年にテレビ放送されていた[[小畑千代]]らの女子プロレス団体は、「[[日本女子プロレス]]であり全女とは別団体である。-->
 
フジテレビでの定期中継番組開始前は[[テレビ東京|東京12チャンネル]](現:テレビ東京)の番組「[[女子プロレス中継 世界選手権シリーズ]]」、』(計2回のみ)や[[テレビ朝日|NETテレビ]](現:テレビ朝日)の番組「[[23時ショー]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の番組「[[11PM]]の中で不定期に中継していた時期もあった。
 
フジテレビにおける中継終了後は[[FIGHTING TV サムライ]]が中継を引き継いだ。FIGHTING TV サムライでは、『全女CLASSICSと題した過去の名勝負を放送している。
 
=== 芸能活動 ===
所属選手全女のレスラーは歌手や女優など芸能活動も積極的に行ったことで、これも人気獲得に一役買っている。それまでプロレスラーの試合中継取材以外でメディアに登場することは男女とも団体の看板レスラーを除けば皆無に等しかったが[[マッハ文朱]]が元々歌手志願だったことから全女の事務所内に芸能部を設置して文朱、マッハを筆頭に多くの所属選手レスラーに歌手デビューさせてレコードを発売するとともにビューティーペアなどは歌番組にも出演させてそれまで女子プロレスに興味を示さなかった一般層の獲得に成功している。
 
また所属選手レスラー映画・ドラマや映画などへの出演も多く特に女子プロレスを題材としたものや中継局であったフジテレビのバラエティ番組である『[[オレたちひょうきん族]]コーナー「[[オレたちひょうきん族のコーナー一覧#ひょうきんプロレスアワー|ひょうきんプロレスアワー]]」と[[めちゃ×2イケてるッ!]]コーナー「[[めちゃ×2イケてるッ!のコーナー#格闘女神MECHA/めちゃ日本女子プロレス|格闘女神MECHA]]」は全女が団体として全面協力していた(格闘女神MECHA格闘女神ATHENA終了と同時に他団体協力へ変更)。
 
== 経営難となった要因 ==
プロレス興業だけでなく松永家における浪費、飲食業経営土地転がし、株の投資に手を出したことが経営を著しく悪化させた最大の要因である。ただし不動産事業に関しては外部から不動産業務のプロを招き入れたため、この事業のみ黒字で1、一番の原因は博打的な株の投資で大損害を負ったからとも言われている。
 
しかし実際は興行面で利益確保が難しく[[クラッシュギャルズ]]全盛期は数十億円程度の収入があったが<ref name="nagayo11" />地方興行は立見券(1,000円)や自由席券(末期は前売りで3,000円)での入場者がかなり目立ち指定席券に空席が多く見られた他当日券は指定席券が1,000円割引、自由席券が半額となる優待券やネット割引クーポン(ネット割引クーポンは[[後楽園ホール]]、ガレージマッチ、一部会場では使用不可)で集客に努めていた。[[アジャ・コング]][[北斗晶]]が在籍していた頃でさえ地方興行のほとんどが赤字遠征であった。[[2003年]][[9月11日]]開催し行われた[[山口県]][[小野田市]]民館体育ホール(現:[[山陽小野田市]]民館体育ホール)大会ではプロモーターによるチケット代金持ち逃げが原因で前払いから後払いに急遽変更した会場使用料を滞納したため施設を管理する小野田市(現:山陽小野田市当時)から告訴されている(後に全女と小野田市の間で和解)<ref>[http://web.archive.org/web/20041213031358/http://blog.livedoor.jp/zenjo/archives/10329498.html 山口県小野田市民館体育ホール施設使用料滞納に関するお詫びと経緯]全日本女子プロレス(2004年12月13日のキャッシュ)</ref>。
 
それゆえに[[1996年]]秋ごろからプロレス興業以外における巨額の借金の返済に追われていたことにより選手スタッフに対しての給料の未払いや遅配が発生し選手はサーキットや練習に追われていたためアルバイトも出来ず最終的にはサーキット中に無償で食事などを提供するプロモーターを頼らざろう得なかった。[[下田美馬]]は貯金は底を尽き給料袋には千円札一枚の時もあった事を明かしている他ある中堅選手も年間300万円の給料の未払いがあり[[夏樹☆たいよう|水嶋なつみ]](現夏樹☆たいよう)も給料未払いを理由に全女を退団している。[[1997年]][[日本武道館]]大会直後には選手全員が事務所前で給料の支払いを求め[[ストライキ]]を敢行している。経営改善策として1997年初めから選手を交代で間引く公休制を試験導入したもののファンやプロモーターから反発があったため公休制はすぐに頓挫している。さらに男性スタッフには全女の運転資金にするため[[消費者金融]]から50万円を借りるよう促された他(返済は当然スタッフが行った)リングアナウンサーを務めていた[[今井良晴]]のようにアルバイトを掛け持ちした男性スタッフもいたという。経営破綻と同時に所有権が移動した自社ビルに関しても経営破綻前から売却を検討していたという<ref name="jiken2" /><ref>日本プロレス事件史 Vol.3「"超絶雑居大家族"全女最後の10年」([[ベースボール・マガジン社]]、2014年)</ref>。事務所移転前後には全盛期のような20戦前後かつ全国を回るサーキットは殆ど組めず関東地方中心でかつ10戦前後のサーキットとなっていた。
 
結局、飲食産業部門の売上げでプロレス興行の赤字分を補填し倒産するまでの5年以上前から自転車操業状態だった。
 
== 団体解散後 ==
最終興行でも正式な「解散宣言」はなく、その後も松永正嗣渉外担当の松永正嗣松永俊国の子息)が中心となって新たな興行主を探して全日本女子プロレス継続を模索していたが多額の負債がネックとなり断念。譲渡先には最終興行をプロモートした[[ファースト・オン・ステージ]](FOS)も挙がっていた。なお最終興行となった[[後楽園ホール]]大会後も[[結城市]][[かなくぼ総合体育館]]大会が[[4月27日]]に予定されていた。
 
[[2005年]][[8月17日]]に全女最後の社長だった松永国松が[[東京都]][[品川区]]内のビルで飛び降り自殺をしていたことが判明。女子プロレス関係者に衝撃を与える最悪の事態となった。[[松永高司]]は解散後[[神田 (千代田区)|神田]]で飲食店を経営し柴田恵陽との共著で[[2008年]]に著書「女子プロレス終わらない夢―全日本女子プロレス元会長松永高司」を出版。[[2009年]][[7月11日]]に帰らぬ人となった。
 
団体解散後も多額の負債を返済できず全女の借金の[[保証人]]となっていた悪徳レフェリーの[[阿部四郎]]は松永家に対する売掛金の回収難も相まって2008年に自宅を差し押さえられている。
 
解散時の7はフリーランスとして選手活動を継続。そのうち[[高橋奈七永|高橋奈苗]](現:高橋奈七永)、[[Hikaru (プロレスラー)|Hikaru]]、[[前村早紀]]の3人でユニット「ドリームキャッチャー」を結成して自主興行を開催行った。2005年9月に業務停止となった[[AtoZ|メジャー女子プロレスAtoZ]]の選手とともにKOプロダクションと契約するも[[2006年]]2月に解消。その後、[[2004年]]まで全女に所属し[[我闘姑娘]]に移籍していた[[夏樹☆たいよう|夏樹☆ヘッド]]全女時代は水嶋なつみ、・[[夏樹☆たいよう]])も合流し10月1日よりファースト・オン・ステージFOSの下で[[CHICK FIGHTS SUN|プロレスリングSUN(後に[[CHICK FIGHTS SUN]]に改名、:CHICK FIGHTS SUN)在は解散)設立旗揚げしたが高橋奈苗は後に退団しHikaruと前村早紀CHICK FIGHTS SUN解散と同時に引退した。フリーランスとして活動を継続していた前川久美子は2006年に[[藤井己幸|サソリ]]は2009年にそれぞれ引退した。ミゼットレスラーはAtoZや[[JWP女子プロレス|JWP]]、[[NEO女子プロレス|NEO]]、AtoZなどを転戦し、現在は単発興行に参戦している。
 
全女が管理していたタイトルは解散と同時に封印されたが[[WWWA世界シングル王座]]のみ[[前川久美子]]が[[高橋奈苗]]とのタイトルマッチを希望していたため管理権を引き継ぐ形で引き続き保持していた(前川は最終興行でWWWA防衛戦を行って引退する予定だったが高橋が怪我で離脱していたため先延ばしに)。そして解散から1年が経過しようとした2006年[[3月26日]]に[[後楽園ホール]]大会での自身にとって最初で最後の自主興行(主催は当時[[アパッチプロレス軍]]の親会社だったキャッシュボックス)にて最後のタイトルマッチが行われ勝利した高橋が最後のWWWAチャンピオンとなり元会長の松永高司元会長にベルトを返還して封印された。この引退興行は全女最終興行同様に全女OGを集めて、レフェリー・リングアナウンサーらスタッフも元全女で構成されるなど事実上の全女最終興行とも言える興行大会となった。
 
2006年7月には旧全女のプロモーターのひとつの田島企画による[[ニュー全日本女子プロレス]]設立旗揚げされ不定期で興行を開催し打っている。当初松永高司は「ニュー全女は全女と一切関係がない」の見解を示していたが後に田島企画は松永家から許可をもらい「全日本女子プロレス」の名称を復活させた。ただし所属選手を持たないプロモーションであり参戦、出場選手もJWPを中心に旧全女所属歴のない選手が多い。
 
また2006、同年に[[お台場]]で開催された「[[レッスルエキスポ2006]]」の女子プロレスイベントでは「女子プロレスがお台場に帰ってきた」と題して行われた。
 
解散まで後援に当たっていた[[デイリースポーツ]]はその後、全女に代わり現存する最古の女子団体となったJWPの主要大会の後援として女子プロレスに関わり続けている。また[[2011年]]には全女で行われていた「[[タッグリーグ・ザ・ベスト]]」と同名の大会がJWPで復活。
 
2015年現在、解散時まで残った選手で現役を続けている選手(セミリタイア状態も含む)は渡辺智子、高橋奈苗(現:高橋奈七永)、A.KONGの3人である。
== DVD ==
解散後、全女の映像版権は[[力道山OB会&プロレス|力道山OB会]]に譲渡されてネット配信などに利用されているが[[2009年]]から[[2010年]]まで「[http://zenjyo-spirits.jp/ 全日本女子プロレス・メモリアルDVDシリーズ]」と題して[[エースデュース]]より順次発売された。
 
== DVD ==
2009年[[6月24日]]に第1弾として[[1993年]][[4月2日]]の[[横浜アリーナ]]大会が収録されたDVDが発売されて2009年内発売分は[[1990年代]]のいわゆる「対抗戦ブーム」に行われたビッグイベントがそれぞれBOXとして収録されている。2010年にはそれぞれ単品として発売。
団体解散後、全日本子プロレスの映像版権は[[力道山OB会&プロレス|力道山OB会]]に譲渡されてネット配信などに利用されているが[[2009年]]から[[2010年]]まで「[http://zenjyo-spirits.jp/ 全日本女子プロレス・メモリアルDVDシリーズ]」と題して[[エースデュース]]より順次発売された。
 
2009年[[6月24日]]に第1弾として[[1993年]][[4月2日]]の[[横浜アリーナ]]大会が収録されたDVDが発売され2009年内発売分は[[1990年代]]のいわゆる「対抗戦ブーム」に行われたビッグイベントがそれぞれBOXとして収録されている。2010年にはそれぞれ単品として発売。
一方、[[JWP女子プロレス]]との対抗戦を収録したDVDはクエストのJWP激闘史シリーズより「JWP激闘史〜団体対抗戦 vs 全女編〜」として発売されている。
 
一方、[[JWP女子プロレス]]との対抗戦を収録したDVDはクエストのJWP激闘史シリーズより「JWP激闘史〜団体対抗戦 vs 全女編〜」として発売されている。
[[2011年]]には[[ベースボール・マガジン社]]より「[[週刊プロレス]]DVD増刊 超戦士伝説1」と題した1990年代初頭(メモリアルDVDシリーズより以前)を収録したDVDが発売される。
 
[[2011年]]には[[ベースボール・マガジン社]]より「[[週刊プロレス]]DVD増刊 超戦士伝説1」と題した1990年代初頭(メモリアルDVDシリーズより以前)を収録したDVDが発売される。
 
== タイトル ==
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: 通称「白いベルト」。
* [[WWWA世界タッグ王座]]
: 100代以上を数える伝統あるチャンピオンベルト。選手権試合は度々3本勝負で行われる。
* [[WWWA世界スーパーライト級王座]]
: いわゆる「最軽量級」を対象とした王座タイトルだが長らく保持した[[チャパリータASARI]]の代名詞的な扱いを受けた。同王座の発案者は[[ロッシー小川|小川宏]](現:ロッシー小川)で「煙草の「スーパーライト」(という銘柄)を見て思いつきました」と当時、小川は語っている。<!--週刊ファイトに連載したロッシー小川のエッセイ「女子プロレス一直線」より。-->
* [[WWWA世界格闘技王座]]
: 格闘技王座と銘打たれているがルールは[[キックボクシング]]に近いため全女内のみならずキックボクシングや[[シュートボクシング]]の選手も挑戦している。
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=== 全日本女子プロレスリング協会 ===
全日本女子プロレスが認定する国内王座タイトル。当初の挑戦資格は所属選手に限られていたが多団体化により全女以外の国内団体に所属する選手にも開放した。
* [[全日本シングル王座]]
: 黎明期には重量級、中量級、軽量級の3階級に分けて実施していたがWWWA王座定着とともに自然消滅。[[1980年]]に無差別級として復活。
* [[全日本タッグ王座]]
* [[全日本ジュニア王座]]
: 当初は20歳以下を対象にした王座タイトルだったが新人選手の高齢化によりキャリア2年以下の選手を対象に改められる。
* [[新人王決定トーナメント (全日本女子プロレス)|新人王決定トーナメント]]
: 基本はトーナメント形式でその年にデビューした新人選手によって争われる。新人選手が少ない年は2年目の選手が参加する場合もある。新人王となった選手にはメダルとトロフィーが授与される。
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=== IWA ===
* [[IWA世界女子王座]]
: 元々はカナダに存在した団体の王座だが、[[長与千種]]が海外遠征に行った際に持ち帰った王座タイトル。団体自体は消滅したが、この王座のみ[[日本]]に定着してタイトルマッチが行われていた。
 
=== リーグ戦 ===
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: シングルのリーグ戦だが年毎に対戦形式が異なっていた。
* [[タッグリーグ・ザ・ベスト]]
: タッグのリーグ戦。最終年([[2004(2004]])のみトーナメント形式だった。[[2011年]]からは[[JWP女子プロレス]]にて同名の大会が復活。
* [[GRAND NORTH6人タッグリーグ]]
: [[1995年]]から3度行われた6人タッグのリーグ戦。
 
=== その他 ===