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父である長実は、祖母に当たる[[藤原親子]](ちかこ)が[[白河上皇]]の乳母であったことから恩恵を蒙り、白河院政期には[[院の近臣]]として活躍した人物である。父の死後は二条万里小路亭で暮らしていたが、[[長承]]3年([[1134年]])に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり{{Efn|得子の母・方子は弟の[[源師時]]に「鍾愛の女子院の寵あり」と語っている(『長秋記』長承3年8月14日条)。}}、[[保延]]元年([[1135年]])12月4日に叡子内親王を出産する。保延2年([[1136年]])4月、[[従三位]]に叙された。保延3年([[1137年]])、[[暲子内親王]](八条院)を産んだ後、[[保延]]5年([[1139年]])5月18日、待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産した。同年8月17日、鳥羽上皇は体仁親王を[[崇徳天皇]]の皇太子とする。体仁親王の立太子とともに得子は[[女御]]となり、正妃の[[藤原璋子|璋子]](待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。保延6年([[1140年]])には崇徳帝の第一皇子・[[重仁親王]]を養子に迎えた。
 
[[永治]]元年([[1141年]])12月7日、鳥羽上皇は崇徳天皇に[[譲位]]を迫り、体仁親王を[[即位]]させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝の中宮・[[藤原聖子]]の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『[[愚管抄]]』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。近衛帝即位の同年、得子は国母であることを根拠に、異例中の異例として上皇の妃ながら皇后に立てられる。皇后宮大夫には[[源雅定]]、権大夫には[[藤原成通]]が就任した。得子の周囲には従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である[[藤原家成]]や、縁戚関係にある[[村上源氏]]、[[中御門流]]の公卿が集結して政治勢力を形成することになる。直後の永治2年([[1142年]])正月19日、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院は出家に追い込まれ{{Efn|『[[本朝世紀]]』同日条によると、待賢門院判官代・源盛行と待賢門院女房の津守嶋子夫妻が、広田社で国母皇后を呪詛し奉ったという密告があり、夫妻は土佐に配流となった。この事件は『台記』『[[百錬抄]]』の同日条にも記載があり、頼長は「一凶一吉眼前に在りとは、待賢門院の謂れか」という風評を記している。}}、得子の地位は磐石なものとなった。[[久安]]5年([[1149年]])8月3日、'''美福門院'''の院号を宣下された。
 
久安4年([[1148年]])に得子は従兄弟の[[藤原伊通]]の娘・[[藤原呈子|呈子]]を養女に迎えた(『[[台記]]』7月6日条)。[[藤原頼長]]の養女・[[藤原多子|多子]]が近衛天皇に入内することを鳥羽法皇が承諾した直後であり、当初から多子に対抗して入内させる意図があったと見られる。久安6年([[1150年]])正月、近衛天皇が元服すると多子が入内して女御となるが、2月になると呈子も関白・[[藤原忠通]]の養女として入内することになり、藤原忠通は鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上した。忠通は弟・頼長を養子にしていたが、実子・[[近衛基実|基実]]が生まれたことで摂関の地位を自らの子孫に継承させることを望み、得子と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる{{Efn|藤原頼長の日記『台記』康治3年正月1日条には、兄・忠通が得子が「諸大夫の女」であることを理由として拝礼に出仕しなかったとして忠通の振る舞いを非難している(なお、頼長は同日に得子に拝礼している)。更に忠通の子である[[九条兼実]]も日記『玉葉』建久6年正月1日条に、摂政である自分が七条院([[藤原殖子]]:[[修理大夫]][[藤原信隆]]の娘で[[後鳥羽天皇]]生母)に拝礼しなかった理由として、故殿(父・忠通)が美福門院に拝礼を行わなかった以来の習わしであるとしており、頼長の記述を裏付けている。更に兼実の別の記事では、待賢門院・美福門院・建春門院([[平滋子]])は摂関家と血縁が遠く、かつその出自が卑しいために摂関家にはこれらの女院に供奉する理由がなかった(文治3年7月26日条)と述べて、摂関家は国母・女院であっても「諸大夫の女」に奉仕する必要がないと述べている<ref>山内益次郎『今鏡の周辺』和泉書院、1993年、P95-96</ref>。}}