「クルマンベク・バキエフ」の版間の差分

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== プロフィール ==
=== 生い立ち ===
* 1972年、電気工学専攻で、[[クイブイシェフ工業大学]]を卒業。軍除隊後、[[サマーラ|クイブイシェフ]]で電気工、後に電気技師として働いた。キルギスタンに戻り、[[ジャラル・アバド]]で技師として出世し、1985年、コク・ヤンガク市の「プロフィール」工場長となった。
* 1990年-1991年、共産党市委員会第一書記、[[コク・ヤンガル市]]会議議長。1991年-1991年、[[ジャラル・アバド州]]人民代議員会議副議長。
 
* 1992年-1994年、トグス・トロウス地区行政府を率いる。1994年-1995年、キルギス共和国国有財産基金副総裁。1995年-1997年、ジャラル・アバド州国家行政府第一副長官、長官。1997年-2000年、チュイ州国家行政府長官、チュイ州知事。
=== 政治家として ===
* 2000年12月から[[2002年]][[5月22日]]まで、キルギス首相だった。5人が死亡し、80人が負傷したジャラル・アバド州での暴動後、解任された。
* 1990年-1991年、共産党市委員会第一書記、[[コク・ヤンガル市]]会議議長。1991年-1991年、[[ジャラル・アバド州]]人民代議員会議副議長。1992年-1994年、トグス・トロウス地区行政府を率いる。1994年-1995年、キルギス共和国国有財産基金副総裁。1995年-1997年、ジャラル・アバド州国家行政府第一副長官、長官。1997年-2000年、チュイ州国家行政府長官、チュイ州知事。
* 2002年10月、バキエフは、議員に選出された。2003年2月、中道代議員グループ「キルギスタンの地域」に加わった。2004年から、キルギスタン人民運動を率いている。
 
* 2005年3月、「[[チューリップ革命]]」で[[アスカル・アカエフ]]が国外逃亡したことを受けてキルギス共和国大統領代行、首相に指名される。
2000年12月から[[2002年]][[5月22日]]まで、キルギス首相だった。5人が死亡し、80人が負傷したジャラル・アバド州での暴動後、解任された。2002年10月、バキエフは、議員に選出された。2003年2月、中道代議員グループ「キルギスタンの地域」に加わった。2004年から、キルギスタン人民運動を率いている。2005年3月、「[[チューリップ革命]]」で[[アスカル・アカエフ]]が国外逃亡したことを受けてキルギス共和国大統領代行、首相に指名される。
* 2005年7月、キルギス大統領選挙で圧勝し、大統領に就任する。
 
* 2007年10月、「[[輝く道 (キルギス)|輝く道]]」(アク・ジョル)党執行委員会議長に選出(大統領在職により党籍は停止)
=== 大統領として ===
* 2010年4月、バキエフ大統領の退陣を求めるデモ隊に対して警官隊が発砲し、首都[[ビシュケク]]は騒乱状態に。各メディアはバキエフがビシュケクから脱出し、元外相の[[ローザ・オトゥンバエヴァ]]が自らを代表とする暫定政府が発足したと宣言。政権が事実上崩壊したのちも大統領の辞任は拒否していたが、[[4月15日]]にキルギスから脱出し、事実上[[ベラルーシ]]へ亡命。辞表に署名したとも伝えられる。詳しくは[[2010年キルギス騒乱]]を参照。
[[ファイル:Kurmanbek Bakiyev and Yasuo Fukuda 20071114 2.jpg|thumb|left|200px|[[2007年]][[11月14日]]、[[総理大臣官邸]]にて[[内閣総理大臣]][[福田康夫]](右)と]]
*2005年7月、キルギス大統領選挙で圧勝し、大統領に就任する。2007年10月、「[[輝く道 (キルギス)|輝く道]]」(アク・ジョル)党執行委員会議長に選出(大統領在職により党籍は停止)。2010年4月、バキエフ大統領の退陣を求めるデモ隊に対して警官隊が発砲し、首都[[ビシュケク]]は騒乱状態に。各メディアはバキエフがビシュケクから脱出し、元外相の[[ローザ・オトゥンバエヴァ]]が自らを代表とする暫定政府が発足したと宣言。政権が事実上崩壊したのちも大統領の辞任は拒否していたが、[[4月15日]]にキルギスから脱出し、事実上[[ベラルーシ]]へ亡命。辞表に署名したとも伝えられる。詳しくは[[2010年キルギス騒乱]]を参照。
 
== パーソナル ==