「柳瀬璋」の版間の差分

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[[1999年]](平成11年)10月改編で、テレビでは現在も続く平日午後の看板番組『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』をスタートさせる。
 
この改編では、ラジオでは[[高橋信三]]社長時代の[[1968年]](昭和43年)から続いていた夜ワイド『[[MBSヤングタウン]]』を終了させる方針だった。背景には、若年層リスナーの中波局(AM)から超短波局(FM。[[FM802]]、[[FM大阪]]など)への流出が近畿圏でも激しくなり、それによる『ヤンタン』の固定スポンサーの撤退が相次ぐ流れがあった。折からTBSでは、1998年10月改編で長年続いた若者向け夜ワイドに代わりスタートした『[[BATTLE TALK RADIO アクセス]]』が成功。[[HBCラジオ]]を皮切りに全国ネット開始が決まり、MBSもラジオ報道部が近畿圏での重大ニュースについて制作協力していた。ローカルセールスながらもJRN系全国ネットの報道番組となる『アクセス』は[[JNN排他協定]]の絡みでMBSが受けないと近畿圏での放送ができないと言われ{{誰2|date=2016年7月15日 (金) 23:39 (UTC)}}、柳瀬は『ヤンタン』を打ち切ってでも『アクセス』を受けるか、見送るかの選択を迫られた。
 
しかしMBSには、1960年代の平日午後ワイド番組『[[オーナー (ラジオ番組)|オーナー]]』のネット受けで聴取率が在阪局中最下位に低落した苦い経験があり、『アクセス』を受けて東京からの全編フルネット番組を増やすことに抵抗があった。加えてTBSとの間で『おはよう一直線』『歌うヘッドライト』の企画ネット化を検討中という事情もあり、『アクセス』のネットを受諾することは社内的に許される状況ではなかった。『ヤンタン』側でも、自身もリスナーだった当時の土曜パーソナリティ[[明石家さんま]]が反対。1980年代に土曜パーソナリティを務めた[[笑福亭鶴瓶]]も復帰の意思を示すなどの動きもあった。厳しい状況の中で、柳瀬は斎藤との相談を経て、『アクセス』ネット断念と『ヤンタン』の土日放送への縮小を決める{{要出典|date=2016年7月15日 (金) 23:39 (UTC)}}
 
厳しい状況の中で、柳瀬は斎藤との相談を経て、『アクセス』ネット断念と『ヤンタン』の土日放送への縮小を決める。
 
{{main|BATTLE TALK RADIO アクセス#関西圏でのネットがなかった理由|JNN排他協定#ラジオ部門の拘束範囲}}{{see also|MBSラジオ#JRN系ネットワーク番組|Japan Radio Network#代表的なネット番組(五十音順)}}{{main|ヤングタウン土曜日#概要|MBSヤングタウン#概要}}{{see also|TBSラジオ平日夜ワイド番組#概要|TBSラジオ平日早朝帯ワイド番組#概要}}