「西郷隆盛」の版間の差分

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藩命で舟牢に入れられて、閏8月初め、徳之島岡前を出発し、14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。しかし、10月、間切横目・[[土持政照]]が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。4月には同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている。
 
文久3年([[1863年]])7月、前年の[[生麦事件]]を契機に起きた[[薩英戦争]]の情報が入ると、処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦しようとした。10)10月、土持が造ってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていた時、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、『与人役大躰』『間切横目大躰』を書いて島役人のための心得とさせ、[[社倉]]設立の文書を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換は欠かさず、大島在番であった[[桂久武]]、琉球在番の米良助右衛門、真木保臣などと書簡を交わした。
 
この頃、本土では、薩摩の意見も取り入れ、文久2年(1862年)7月に松平春嶽が[[政事総裁職]]、徳川慶喜が[[将軍後見職]]となり([[文久の幕政改革]])、閏8月に[[会津藩]]主・[[松平容保]]が[[京都守護職]]、[[桑名藩]]主・[[松平定敬]]が[[京都所司代]]となって、幕権に回復傾向が見られる一方、文久3年(1863年)5月に[[長州藩]]の[[米艦砲撃事件]]、8月に奈良五条の[[天誅組の変]]と長州への[[七卿落ち]]([[八月十八日の政変]])、10月に[[生野の変]]など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕権の失墜を謀っていた。