「平岩親吉」の版間の差分

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[[永禄]]元年([[1558年]])に[[初陣]]する。家康の信任は厚く、三河統一戦や[[遠江国|遠江]]平定戦などで戦功があり、家康の嫡男・[[松平信康]]が元服すると、その傅役として信康を補佐した。しかし[[天正]]7年([[1579年]])、[[織田信長]]により信康の切腹が家康に要求されると、親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし信康の処断を防ぐことは出来ず、その責任を感じて蟄居謹慎する。後に家康に許され、再び直臣として復帰した。だが、信康切腹が信長の命令によるものという通説には疑問点も多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説が出されている。
 
同時に、天正4年12年([[1576年]]1月)、信長の命を受けた家康の命を受けて、[[大樹寺|三河大樹寺]]にて、家康の母方の伯父[[水野信元]]父子を誅殺している。
 
天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]で信長が横死すると、家康は天正11年([[1583年]])までに[[甲斐国]]を平定し、親吉は家康の命令で[[甲府城]]の築城を開始し、甲斐の[[郡代]]として武田遺臣を慰撫し、国内経営に尽力した(ただし、初期は[[岡部正綱]]と共同支配であったとみられている<ref>柴裕之「徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年</ref>)。天正18年([[1590年]])、[[小田原征伐]]で戦功を挙げ、[[関東]]に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。