「エドガートン・ハーバート・ノーマン」の版間の差分

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→‎スパイ: 事実として確定しているのは学生時代に共産主義者だったということ。英語で" verona, E. Herbert Norman"とググっても何も出てきません。
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[[1946年]]8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。その後[[1951年]]9月には[[日本国との平和条約|サンフランシスコ対日講和会議]]のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。
 
===スパイ容疑===
その後、第二次世界大戦後の[[冷戦]]下のアメリカで起きた[[赤狩り]]旋風の中で[[共産主義]]者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐[[ニュージーランド]][[高等弁務官]]に任命され、その後[[1956年]]には駐[[エジプト]][[大使]]兼[[レバノン]]公使に栄転する。同年に起きた[[スエズ動乱]]勃発では、盟友の[[レスター・B・ピアソン]]を通して現地の平和維持と監視のための[[国際連合緊急軍]]導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、[[都留重人]]を取り調べた[[連邦捜査局|FBI]]捜査官によるアメリカ上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先の[[カイロ]]で飛び降り[[自殺]]を遂げた。