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| result = [[アドルフ・ヒトラー]][[総統]]の暗殺および[[クーデター]]失敗
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| casualties2 = {{unbulleted list |将校 3人死亡 |書記 1人死亡}}
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'''7月20日事件'''は、[[1944年]][[7月20日]]に発生した[[ナチス・ドイツ]][[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]暗殺未遂とナチス・ドイツ政権に対する[[クーデター]]未遂事件。
 
ナチス・ドイツの政策への反対や、[[第二次世界大戦]]における[[連合国]]との和平を目的として[[ドイツ国防軍]]の[[反ナチ運動|反ナチス]]将校グループが計画、実行した。ヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された。
 
==背景==
19321933年に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の党首アドルフ・ヒトラーが[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]][[ドイツ国首相|首相]]に就任した。[[ユダヤ人]]に対する差別政策など、過酷な政策を推進するナチスに反発し、ヒトラーの暗殺を計画、実行する個人もしくはグループが現れた。
 
ワイマール共和国およびナチス・ドイツにおける国防軍とナチス党及びヒトラーとの関係は複雑なものであった。ナチスの政策、特に[[ドイツ再軍備宣言|ドイツの再軍備]]、軍備拡張に賛同する将校が多くいる一方、軍事力を背景とする領土の拡張政策が周辺国との戦争を引き起こし、ドイツが敗北することに懸念を持つ者もいた。
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1938年のナチス・ドイツによる[[チェコ]]の[[ズデーテン]]併合時に計画されたクーデター計画が、国防軍内における反ナチス運動の嚆矢だった。ズデーテン併合により[[イギリス]]および[[フランス]]から宣戦布告されることをおそれた[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[参謀総長]]の[[ルートヴィヒ・ベック]]は職を辞し、参謀総長の[[フランツ・ハルダー]]、アブウェール次長の[[ハンス・オスター]]、第三軍管区司令官[[エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン]]、第二十三歩兵師団長[[エーリヒ・ヘプナー]]など反ナチス派将校や民間人を集めてクーデター計画を練った。計画では臨時政府の元で総選挙を実施し政治を正常化させることになっていたが、ヒトラーの扱いについては、殺害、逮捕および裁判、精神異常者として拘禁するなど意見がまとまらなかった。イギリスの首相[[ネヴィル・チェンバレン]]の提案により行われた[[ミュンヘン会談]]においてイギリスおよびフランスがドイツのズデーテン併合を認めたため、クーデター計画はその根拠を失い中止された。
 
1939年の[[ポーランド侵攻]]を機に第二次世界大戦が勃発し、更に1941年に開始された[[ソビエト連邦]]との戦いが泥沼化すると、国防軍将校によるクーデター計画が再燃した。1943年には[[東部戦線]]の[[中央軍集団]][[参謀]]の[[ヘニング・フォン・トレスコウ]]は、ヒトラーの前線視察時に暗殺する計画を立てた。彼の副官[[ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ]]は、ヒトラーの専用機に爆弾を仕掛けたが不具合により起爆せず失敗した。この他にも[[ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ]]などを実行犯とするヒトラー暗殺計画が何度か企てられたが、いずれもスケジュール変更などの事情により決行されなかった。
 
== 経緯 ==
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=== 繰り返す計画延期 ===
1944年7月6日、シュタウフェンベルク大佐は、[[ベルヒテスガーデン]]にあるヒトラーの別荘[[ベルクホーフ]]で行われた会議に出席し、この時初めて爆弾を携帯した。当初、シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、彼が実行せず失敗した<ref name="ホフマン_2010_386">{{Cite book|和書|author=ホフマン|title=ヒトラーとシュタウフェンベルク家|year=2010|pages=p.386}}</ref><ref name="クノップ_2008_248">{{Cite book|和書|author=クノップ|title=ヒトラー暗殺計画|year=2008|pages=p.248}}</ref>。
 
7月11日のベルクホーフでの会議。しかしこの日、[[ヘルマン・ゲーリング]]と[[ハインリヒ・ヒムラー]]が出席していなかった。この時点では「黒いオーケストラ」グループは、ヒトラーと共に他のナチス首脳も暗殺すべきだと考えていた。彼らはゲーリングは特に問題視しなかったが、[[親衛隊]]指導者ヒムラーは暗殺せねばならないと主張。彼が生存していると、親衛隊と陸軍の間で内乱になる恐れがあったからだ。シュタウフェンベルクは会議を抜け出しオルブリヒトに連絡。ヒムラー不在を告げると、オルブリヒトは計画中止を指示。落胆した彼はシュティーフに向かって「こん畜生め!行動すべきではないのか?」と口にしたという<ref name="クノップ_2008_248"/><ref name="ホフマン_2010_386"/><ref name="マンベル_1972_111">{{Cite book|和書|author=マンベル|title=ヒトラー暗殺事件|year=1972|pages=p.111}}</ref>。
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=== 「ヴァルキューレ」作戦発動 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1970-097-76, Hitler-Attentat vom 20. Juli 1944.jpg|thumb|right|200px|爆発現場を訪れたヒトラーとムッソリーニ]]
午後1時13分頃、シュタウフェンベルク大佐とヘフテン中尉は、ヒトラー死亡を確信しつつ、ベルリンへ飛び立った。その頃、暗殺計画に加わっていた陸軍通信部隊司令官フェルギーベル大将は爆発現場に居て、ヒトラーが生存していることに気付く。彼は総統大本営から外部への通信を遮断し、間接的表現ながら、ヒトラー生存を伝えた。爆発は当初、ソ連軍機が低空から爆弾投下したのが原因と考えられていたが、やがて会議に参加していたはずの、シュタウフェンベルクの姿が爆発後見えず、爆発前の奇妙な行動から、彼が犯人と把握され、ヒトラーは[[親衛隊全国指導者|SS総司令長官]]であるヒムラーに事件の調査とシュタウフェンベルク逮捕を命じ、自らは来訪するムッソリーニとの会談に臨んだ。実行犯2人がベルリンへ飛行中の約3時間、連絡を交わす事は不可能で、その間、通信管制下の総統大本営からの情報も曖昧で断片的なものだったため、ベルリンにいた反乱派は、「ヴァルキューレ」作戦を発動するかどうか判断に迷った。軍の部隊を召集し展開させるには一定の時間が必要で、発動が遅れればそれだけ、クーデターが不利になるのは確実だった。
 
午後3時50分頃、2人が到着する前に、[[アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム]]大佐が、「ヴァルキューレ」発動を各軍管区に[[テレタイプ端末|テレタイプ]]で発令していた。命令にはヴィッツレーベン元帥が署名、総統の死亡と非常事態宣言、彼が国防軍総司令官になった旨伝えていた。
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午後5時過ぎ、反乱派はヘプナー上級大将を国内軍司令官に任命した。一方、ヴァルキューレ発動と動員命令、更には総統の生存という、2つの相反する指令を相次いで受けた各地の部隊は混乱し、反乱派とヒトラー側の双方に事実確認を求める連絡が殺到した。シュタウフェンベルクやオルブリヒトは電話での対応に追われ、反乱成功に必要な活動を行えなくなった。
 
その間、反乱派のベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将の命で、警備大隊長[[オットー・エルンスト・レーマー|レーマー]]少佐の部隊がベルリン市内の主要地点に配置され始めた。しかし国内予備軍司令部の反乱派からの適切な指示も無く、動員された人数も少なく、拠点の出入りを規制することしかできなかった。そのため放送局内部に人員を配置することもせず、[[宣伝省]]や[[ゲシュタポ]]本部にいたっては全く手付かずだった。
午後6時、反乱派は全軍管区に対し、[[戒厳令]]布告と[[武装親衛隊]]、[[ゲシュタポ]]の処理・粛清、閣僚・ナチス党幹部・警察幹部の逮捕と[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]の確保を指令した。
 
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=== 敗北 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1972-109-19A, Berlin, Soldaten und Waffen-SS im "Bendlerblock".jpg|thumb|250px|ベンドラーブロックに入る武装親衛隊。1944年7月]]
その少し前の午後6時30分頃、ベルリンにいた[[ヨーゼフ・ゲッベルス]][[国民啓蒙・宣伝省|宣伝相]]は、反乱派の命により出動したレーマー少佐を宣伝省に呼んだ。彼はレーマーをヒトラーと直接電話で会話させ、味方に引き入れた。ヒトラーはその場でレーマーを大佐に昇進させ、反乱鎮圧とヒムラーが到着するまでの間、現場責任者に任命した<ref>レーマーは柏葉付き騎士鉄十字勲章を授与された際ヒトラーと直接対話した経験が有り、電話口でヒトラーの肉声を聞くとすぐ生存を確信し、反乱鎮圧の決意を固めた。また、前線勤務を重ねた野戦将校として、反乱派の大半を占める後方部隊の参謀将校に好意を持っていなかった、と戦後証言している</ref>。レーマーは配下の将校をベルリン市内の要所に配備させ、市内へ向かう各部隊に事情を説明し、国内予備軍司令部から発令されたヴァルキューレ発動に伴う命令に従わないよう伝えて回った。
 
このように、反乱派は自ら軍部隊をベルリン市内の現場で直接指揮せず、自分らに対しシンパシーを持たない将校(レーマー少佐)が指揮する一個大隊の兵力に市内の制圧を委ねる、という致命的ミスを犯し、放送局やゲシュタポ本部、宣伝省など重要拠点の確保に失敗。更にその将校がヒトラー側に抱き込まれ、自衛のための部隊すら喪失。逆にその部隊によって掃討されることになる。
 
午後7時45分頃、反乱派は放送局の放送内容を否定し、発令された命令の実行を改めて指令した。さらに西部方面軍司令官クルーゲ元帥にはベックが直々に連絡し、反乱への参加を呼びかけたが、クルーゲは言を左右にし応諾しなかった。彼は自ら総統大本営のシュティーフ少将に連絡してヒトラー生存を確認。それ以後反乱派と連絡を絶った。午後8時すぎ、[[パリ]]軍政長官[[カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル]]大将と、シュタウフェンベルクの従兄弟[[ツェーザー・フォン・ホーファッカー]]([[:de:Caesar von Hofacker]])空軍中佐が、クルーゲの元を訪れて説得したが、彼はそれに応ぜず、逆に逃亡・潜伏を薦めている。
 
午後8時10分、反乱派の軍事的最高位ヴィッツレーベン元帥が国内予備軍司令部に到着するが、司令部の混乱ぶりと指揮する軍部隊が居ない事を知り、シュタウフェンベルクらの不手際を批判する。一方、総統大本営から各軍管区にカイテル元帥から、総統生存とヴィッツレーベン、ヘプナーからの命令には従わないよう指令が伝わる。各軍管区司令部はベルリン放送やカイテルの指令が真実であると認識し、ヴァルキューレ発動を中止。ヒトラーに忠誠を誓った。[[ウィーン]]の第17軍等は[[帝国大管区|大管区]]指導者、親衛隊関係者を逮捕する動きに出ていたが、すぐに中止している。
 
午後8時50分頃、ヴィッツレーベンはクーデターの失敗を悟り、国内予備軍司令部を出てベルリン郊外の友人の別荘へ行った。午後9時30分頃、ベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将が降伏したという知らせが入り、シュタウフェンベルクもさすがに疲労と落胆を隠せなくなった。
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#シュタウフェンベルクは爆弾が入った鞄を、会議用テーブル下のヒトラーに近い位置に置いたが、総統副官のブラント大佐はその鞄を邪魔に感じ、それを木製脚部の外側へ移動させた。その偶然の動作により、テーブル脚部がヒトラーに対する爆風を直撃する盾となり、ヒトラーに当たる爆風の威力が軽減された。
そのため、人為的要素ではない1が解決されれば、暗殺が成功したと指摘する声があった。そんななか、[[怪しい伝説]]という番組で1の点が検証された。番組内では、地下室の再現はできなかったものの、密閉空間の再現としてコンテナを代用し、2と3の内容は変えずに爆破実験が行われた。その結果、史実の地下室より有利な状況にも関わらず<ref>地下室に比べコンテナの方が面積が狭いためである。</ref>、ヒトラーは死亡には至らなかった。そのため、番組の結論としては1の要素より、2と3の要素の方が影響が大きいとまとめられている。
実際、副官のブラント大佐が鞄を動かした位置で爆風の直撃を受けたと思われる人物が即死ないし重傷を負ったことがこの結論を補強している。
 
== 粛清 ==
7月21日、東部戦線のトレスコウ少将は、ソ連軍との[[最前線]]付近で[[手榴弾]]を爆発させ自決。西部戦線のシュテュルプナーゲル大将も自決を図ったが失敗し、病院に収容されて治療後逮捕された。21日を境に、陰謀に加担したとみられる者が逮捕され、ゲシュタポの厳しい訊問と拷問を受けた。逮捕者数は容疑者と親類縁者、逃走幇助者など[[連座]]拘束を含めて600-700人とされる(また、この機会に乗じ、日頃から反ナチスの言動で知られた人々も逮捕され、その数は約7,000人とされる)。軍関係の容疑者たちは国防軍最高司令部に設けられた形式的な特別名誉審判で軍籍を剥奪された後、ヒトラーが「我々の[[アンドレイ・ヴィシンスキー|ヴィシンスキー]]」と呼んだ[[人民法廷|民族裁判所]]長官[[ローラント・フライスラー]]による形式的な見せしめ裁判にかけられた。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 151-39-23, Volksgerichtshof, Reinecke, Freisler, Lautz.jpg|thumb|250px|ヒトラー暗殺未遂事件の裁判を宣言する人民法廷<br /><SMALL>中央の法服姿の人物が裁判長の[[ローラント・フライスラー]]。向って左の軍服の人物は裁判官に選出された[[ヘルマン・ライネッケ]]中将(国防軍最高司令部国家社会主義指導部長)、右側の人物は首席検事の[[エルンスト・ラウツ]]。([[:de:Ernst Lautz]])</SMALL>]]
 
8月7日から始まった裁判では、まずヴィッツレーヴェン、ヘプナー、ハーゼ、シュティーフら8人が起訴され、翌8日、死刑判決が下るとその数時間後には、ベルリン北西部[[プレッツェンゼー刑務所]]([[:de:Gedenkstätte Plötzensee|Gedenkstätte Plötzensee]])の処刑場で、[[ピアノ線]]で吊るされ、時間をかけて絞殺する残虐な方法で[[絞首刑]]にされた。その処刑の模様は映像に記録され、ヒトラーの鑑賞に供された。処刑の映像を彼は楽しんで鑑賞したという説もあるが、側近達の回想では鑑賞を拒否したとされている<ref>[[オットー・ギュンシェ]]、従者シャウプ、宣伝省官吏 I・シェッフェル、ゲシュタポ要員G・キーセルなど複数の証言。</ref>。
その後、ヘルドルフ、シュテュルプナーゲル、フェルギーベル、ホーファッカー、ゲルデラー、ネーベ、カナリス、オスター、ボンヘッファーら約200人が次々に処刑された。1945年2月3日、裁判長フライスラーは[[ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ]]の裁判中、アメリカ軍の空襲で死亡したが、その後も裁判と処刑は継続され、ドイツの敗戦直前まで続いた。
 
1945年2月3日、裁判長フライスラーは[[ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ|フォン・シュラーブレンドルフ]]の裁判中、アメリカ軍の空襲で死亡したが、その後も裁判と処刑は継続され、ドイツの敗戦直前まで続いた。
一方、フロム上級大将は、シュタウフェンベルクらを勝手に処刑した事が、口封じだと見なされて逮捕され、7月20日事件当日の態度が、優柔不断で陰謀に断固抵抗せず、臆病であるとして[[1945年]]3月12日に銃殺された。
 
一方、フロム上級大将はシュタウフェンベルクらを勝手に処刑した事が'''口封じ'''だと見なされて逮捕され、7月20日事件当日の態度が優柔不断で陰謀に断固抵抗せず、臆病であるとして[[1945年]]3月12日に銃殺された。
処刑の映像は、見せしめと警告の目的で、[[陸軍士官学校]]で上映されたが、生徒達から強い批判を受けて、ヒトラーは敗戦までに全面破棄を厳命したため、現在も発見されていない。なお、人民裁判所での裁判の映像は現存しており、動画サイトでも閲覧可能である。
 
処刑映像は見せしめと警告の目的で[[陸軍士官学校]]で上映されたが、生徒たちから強い批判を受けて、ヒトラーは敗戦までに全面破棄を厳命したため、現在も発見されていない。なお、人民裁判所での裁判の映像は現存しており、動画サイトでも閲覧可能である。
 
=== 粛清の影響を受けた主要な人物 ===
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*[[ギュンター・フォン・クルーゲ]]元帥 - トレスコウ少将の上司であり、反ヒトラーの陰謀がある事は知っていたが、決定的には疑われなかった。しかし1944年8月、西部戦線の司令官を解任され、帰国途中の18日に服毒自殺している。
*[[ヒャルマル・シャハト]]元経済大臣 - 関与を疑われ、[[ダッハウ強制収容所]]に収容されたが、敗戦直前に解放される。
*[[エルンスト・ユンガー]]大尉 - ロンメル元帥やフォン・シテュルプナーゲル将軍をはじめ西部方面のドイツ将官に影響力を及ぼしていた『平和』の著者。ヒトラー暗殺計画との関連を追及され軍を解雇されている。
 
== 影響 ==
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関係者の摘発や粛清が徹底的に進められたことで、「総統に反逆を行うものは自身のみならず一族郎党含めて極刑に処する」という強い警告が浸透するようになり、これ以降ヒトラーに対する暗殺計画が実行されることは無くなった。
 
また、この事件を契機に国防軍内でも[[ナチス式敬礼]]を行うことになった。その他、それまでは政治的影響を免れていた[[ドイツ海軍 (国防軍)|海軍]]にも[[政治将校]]が配属され、それは前線の[[Uボート]]部隊にもおよんだ。さらに、「'''7月20日の裏切り者'''」のレッテルを貼られることを怖れた将軍たちはヒトラーに意見することを止め、ドイツ軍の作戦行動は硬直化することとなったが、反面軍部内の防諜が強化され、連合軍の情報収集活動も困難化した。
 
暗殺未遂事件に関与した者に対する粛清は、ドイツ降伏直前の1945年4月下旬まで続けられた。