「ブルータス・ビーフケーキ」の版間の差分

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| 画像 = Brutus Beefcake2.jpg
| 画像説明 =
| リングネーム = '''ブルータス・ビーフケーキ'''<br />'''エド・レスリー'''<br />エディ・ボールダー<br />ディジー・ホーガン<br />ザ・ディサイプル<br />ザ・ゾディアック<br />ザ・ブッチャー<br />ザ・ブーティー・マン
| 本名 = エドワード・ハリソン・レスリー
| ニックネーム = ザ・バーバー
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== 来歴 ==
[[1978年]]のデビュー後、[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]の[[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション|CWA]]にて、当時の[[ハルク・ホーガン]]のリングネームであったテリー・ボールダーにあやかり、'''エディ・ボールダー'''(''Eddie Boulder'')と名乗って活動<ref name="wd">{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=247&bild=1&details=7&liga=165&jahr=1979|title=The USWA matches fought by Brutus Beefcake in 1979|accessdate=2015-03-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。兄弟タッグチームという設定のもと、テリー&エディのボールダー・ブラザーズとして、[[ロン・バス (プロレスラー)|ロン・バス]]&[[ソニー・キング]]、[[ハンス・シュローダー]]&[[リップ・オリバー|ゲシュタポ]]、ブロンド・ボンバーズ([[ラリー・ブッカー|ラリー・レイザム]]&[[ウェイン・ファリス]])などのチームと対戦した<ref name="wd"/>。その後、テリー・ボールダーがハルク・ホーガンに改名して注目を浴びるようになると、レスリーも'''ディジー・ホーガン'''(''Dizzy Hogan'')に改名してホーガンの弟と称するなど、[[ギミック (プロレス)|ギミック]]とは知らず2人を本当の兄弟だと信じていたファンも多かった。
 
[[1980年]]にホーガンが[[新日本プロレス]]に登場して常連外国人となると、[[1982年]]8月にホーガンの弟として、'''エド・レスリー'''(''Ed Leslie'')の名義で新日本に初来日。新日本プロレスはレスリーをホーガンとの「兄弟タッグ」で売り出そうとしたが、レスリーがタッグ結成を拒否し、ホーガンとのマッチメイクを希望したためお蔵入りとなる(拒否の理由は、「自分は兄ホーガンを倒すためにレスラーになったから」というものだった。実際、来日時は一度もタッグを組んでおらず、レスリーは外国人エース格の[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]や[[サージェント・スローター]]、さらには[[国際軍団]]の[[ラッシャー木村]]とも共闘し、新日本陣営にいたホーガンと対戦した)<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=247&bild=1&details=7&liga=121&jahr=1982|title=The NJPW matches fought by Brutus Beefcake in 1982|accessdate=2015-03-29|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。
 
[[File:Brutus beef cake.jpg|thumb|left|1980年代]]
翌年ホーガンが[[WWE|WWF]](現WWE)と契約したことから、ホーガンの仲介でレスリーも[[1984年]]よりWWF入りを果たす。WWFでは顔の一部を整形して'''ブルータス・ビーフケーキ'''(''Brutus Beefcake'')を名乗り、モデルからプロレス入りした唯一の男をギミックに、[[ジョニー・バリアント]]をマネージャーに付けてキザな[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として活躍。[[1985年]]には[[グレッグ・バレンタイン]]とのタッグ "'''ザ・ドリーム・チーム'''(''The Dream Team'')" を結成し、同年8月24日に[[バリー・ウインダム]]&[[マイク・ロトンド]]の[[USエクスプレス]]を破り[[WWE・世界タッグチーム王座|WWF世界タッグ王座]]を奪取。翌[[1986年]]4月7日の[[レッスルマニア2]]において、[[ダイナマイト・キッド]]&[[デイビーボーイ・スミス]]の[[ブリティッシュ・ブルドッグス]]に敗れるまで戴冠した<ref name="wwe-t">{{cite web|url=http://us.wwe.com/inside/titlehistory/worldtagteam/|title=History of the WWE World Tag Team Championship|accessdate=2015-03-29|publisher=WWE.com}}</ref>。
 
[[1987年]]にバレンタイン&バリアントと仲間割れを起こし、[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]に転向。[[アドリアン・アドニス]]とも抗争を開始し、[[レッスルマニアIII]]で行われた[[ロディ・パイパー]]対アドニスの髪切りマッチにおいて、パイパーに加担して敗者アドニスの髪を切ったことから'''ザ・バーバー'''(''The Barber'' / 散髪屋)のニックネームが付けられる。これをきっかけに、園芸用の大バサミを持っての入場パフォーマンスを展開。「ザ・バーバーショップ」なるインタビューコーナーも担当し、理髪店を模したセットを舞台に、主にヒールサイドのレスラーを相手に舌戦を展開した。もともとレスラーとしての技能よりもトークの上手さなどのタレント性が評価されていたこともあり、この[[ベビーフェイス (プロレス)#フェイスターン|フェイスターン]]は成功を収めた。
 
しかし[[1990年]]、[[パラセーリング]]中のアクシデントで顔面を強打し長期欠場を余儀なくされる。翌年にフェイスマスクを付けて復帰するが、レギュラー出場は見送られスポット的にリングに上がっていた。[[1993年]]に映画出演などで一時引退していたホーガンがWWFに復帰すると、タッグチーム "'''メガ・マニアックス'''(''Mega Maniacs'')" を結成。[[1990年代]]前半にはホーガンの新日本プロレス参戦の条件としてビーフケーキも同行するという決まりがあったため、新日本でも何度か試合を行っている。
 
[[1994年]]にホーガンが[[WCW]]へ移籍すると自身もWCWと契約。当初は[[ケビン・サリバン]]率いるダンジョン・オブ・ドゥームのメンバーとしてホーガンと敵対していたが、[[ニュー・ワールド・オーダー|nWo]]ではホーガンの「信者」として共闘した。WCW時代は'''ザ・ブッチャー'''(''The Butcher'')、'''ザ・ゾディアック'''(''The Zodiac'')、'''ザ・ディサイプル'''(''The Disciple'')、'''ザ・ブーティー・マン'''(''The Booty Man'')などリングネームを数多く変えているが、どれも活躍はできなかった。その後、WWF時代に起こしたパラセーリング事故の後遺症によって、しばらく試合を行っていない。
 
[[2000年代]]に入ってからはインディー団体に単発的にゲスト参戦しており、[[2007年]]8月には[[インセイン・クラウン・ポッシー|ICP]]主宰の[[ジャガロ・チャンピオンシップ・レスリング|JCW]]にてグレッグ・バレンタインとのドリーム・チームを再結成。[[マッドマン・ポンド]]&[[ネクロ・ブッチャー]]や[[バシャム・ブラザーズ]]などが参加したJCWタッグ王座争奪の8チーム・エリミネーション・マッチに出場している<ref name="jcw">{{cite web|url=http://www.cagematch.net/?id=1&nr=18281|title=JCW Bloodymania|accessdate=2015-12-19|publisher=Cagematch.net}}</ref>。