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== 来歴 ==
幼少期に、父親が指導者を務めていた桜井FCの練習について行っていたことをきっかけにサッカーを始める。小学校5年生の時「毎日サッカーが出来る」という理由で桜井FCより練習日の多い[[ディアブロッサ高田FC|高田FC]]に移る。中学3年時に複数の高校やクラブチームからスカウトされ数チームに練習参加、当初は[[全国高等学校サッカー選手権大会|高校選手権]]への出場を夢見て高校サッカーへ行こうとしていたが、部活特有の厳しい上下関係や規律に馴染めず、それらに比べて自由な雰囲気だったという[[サンフレッチェ広島F.Cの育成組織|サンフレッチェ広島]]ユース]]に惹かれるようになる。
=== ユース時代 ===
幼少期に、父親が指導者を務めていた桜井FCの練習について行っていたことをきっかけにサッカーを始める。小学校5年生の時「毎日サッカーが出来る」という理由で桜井FCより練習日の多い[[ディアブロッサ高田FC|高田FC]]に移る。中学3年時に複数の高校やクラブチームからスカウトされ数チームに練習参加、当初は[[全国高等学校サッカー選手権大会|高校選手権]]への出場を夢見て高校サッカーへ行こうとしていたが、部活特有の厳しい上下関係や規律に馴染めず、それらに比べて自由な雰囲気だったという[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]ユースに惹かれるようになる。
 
=== 広島ユース時代 ===
[[2002年]]、広島ユース入団<ref group="注">。ユースの級生は期に、広島下部組織出身の[[森脇良太]]、[[大屋翼]]、[[高柳一誠]]、[[桑田慎一朗|桒田慎一朗]]、前田同様に全国からスカウトされた[[佐藤昭大]]、[[高萩洋次郎]]、[[森脇良太]]、[[桑田慎一朗]]、[[藤井大輔 (サッカー選手)|藤井大輔]]、[[大屋翼]]、[[冨成慎司]]ら。</ref>など。当初は主にトップ下を務めていたが、次第にストライカーとして頭角を表すようになる。
 
[[2003年]]、[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|日本クラブユース選手権]]直前に腕を骨折、同大会と[[高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会|高円宮杯全日本ユース選手権]]は欠場。復帰後、自分不在のチームが快進撃を続けた事<ref group="注">クラブユース選手権初優勝、高円宮杯3位</ref> と快進撃を続けたことへの焦りと悔しさをバネに、復帰した同年末の[[Jリーグユース選手権大会]]でチームを優勝に導き、自身も得点王となる<ref group="注">準決勝[[セレッソ大阪]]|セレッソ大阪U-18]]戦で見せたの、後方からのロングフィードをトラップすることなく右足で叩きこんだランニングボレーシュートは、その映像が全国放送のテレビニュースで使用された。</ref>
 
[[2004年には]]、「10」番を背負い、チームをクラブユース選手権優勝(得点王&MVP受賞)、高円宮杯優勝(得点王受賞)に導く活躍を見せとともに前年のJリーグユース選手権大会から3大会連続得点王に輝く。き、クラブユース史上初の3冠を目指したJユースカップ選手権では、決勝でPK戦の末敗れ準優勝となっMVPも獲得した。
クラブユース史上初の3冠を目指したJリーグユース選手権大会では、決勝で[[鹿島アントラーズ|鹿島アントラーズユース]]にPK戦の末敗れ、準優勝となった。
またこの年は2種登録選手としてJ1に数試合出場、2ndステージ[[ジュビロ磐田]]戦でJリーグ初得点、チームの勝利とJ1残留を決定付ける決勝点を挙げた。
 
=== プロ時代入り後 ===
またこの年は、2種登録選手としてJ1に数試合出場、2ndステージ[[ジュビロ磐田]]戦でJリーグ初得点、チームの勝利とJ1残留を決定付ける決勝点を挙げた。
[[2005年のJリーグ ディビジョン1|2005年]]にサンフレッツェ広島トップチームへ昇格する形で入団。同期は、ユースからの同時昇格である高柳、佐藤、森脇、高柳、桒田と、[[入船和真]]、[[中尾真那]]、[[西河翔吾]]。第3節の名古屋グランパスエイト戦で初のベンチ入りと89分よりの交代出場を果たす。第5節の東京ヴェルディ1969戦では先発出場して1得点1アシストの活躍を見せ、開幕以来[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]を含めて6戦連続勝ち星のなかったチームに初勝利をもたらした。その後も途中出場が中心ながらコンスタントに試合出場を続け、3度の決勝点(うち[[ロスタイム]]に2度)を挙げ、チームの上位進出に貢献した。
 
=== プロ時代 ===
[[2005年のJリーグ ディビジョン1|2005年]]にサンフレッツェ広島トップチームへ昇格する形で入団。同期は、ユースからの同時昇格である高柳、佐藤、森脇、桑田と、[[入船和真]]、[[中尾真那]]、[[西河翔吾]]。第3節の名古屋グランパスエイト戦で初のベンチ入りと89分よりの交代出場を果たす。第5節の東京ヴェルディ1969戦では先発出場して1得点1アシストの活躍を見せ、開幕以来[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]を含めて6戦連続勝ち星のなかったチームに初勝利をもたらした。その後も途中出場が中心ながらコンスタントに試合出場を続け、3度の決勝点(うち[[ロスタイム]]に2度)を挙げ、チームの上位進出に貢献した。
 
また、同年のU-20日本代表では[[2005 FIFAワールドユース選手権]]のメンバーに選出され、グループステージ・[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦と決勝トーナメント初戦・[[サッカーモロッコ代表|モロッコ]]戦に交代出場。オーストラリア戦では、グループステージ敗退寸前に追い込まれたチームを決勝トーナメントへと導く貴重な得点を挙げた。