「池田晶子 (文筆家)」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
[[港区立御田小学校]]<ref>4年次に編入</ref>、[[港区立三田中学校|港区立港中学校(現:三田中学校)]]、[[慶應義塾女子高等学校]]を経て[[慶應義塾大学]][[文学部]][[哲学]]科卒業。高校時代は[[登山]]に熱中する。大学時代、哲学者[[木田元]]に師事する。容姿に優れアルバイトとして雑誌『[[JJ (雑誌)|JJ]]』の[[読者モデル#読者モデル出身の有名人|読者モデル]]を務める。これにより経済的にも自立し、進路を巡って両親との葛藤もあり、在学中に一人暮らしを始めるようになる。卒業後は就職はせず、モデル事務所に籍をおく。このとき『[[文藝]]』の校正の仕事をしたのがきっかけとなり文筆活動に専念するようになる<ref>『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』85(7):442-3</ref>。{{要出典範囲|以後、[[朝日新聞]]記者(論説委員)であった父親の影響を受け文筆の才を示すことになる。その後[[埴谷雄高]]との交流をきっかけに『最後からひとりめの読者による埴谷雄高論』([[1987年]]、[[河出書房新社]])を上梓するも、かつて[[全学共闘会議|全共闘闘士]]であった担当編集者と喧嘩をし、自ら同書を絶版にする。言葉と精神の仕事のはずの言論出版界の陰険さに失望するとともに、数年間文筆業界では「干された」状態にあった。|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)}}
 
その後『事象そのものへ!』([[法藏館]]、1991年){{要出典範囲|の連載で復帰し、専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語ることで、多くの読者を集める。現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけで存在と宇宙について思考をめぐらし、その執筆活動は哲学エッセイというジャンルの草分け的存在にもなっている。|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)}}
 
[[古代ギリシア]]の哲学者[[ソクラテス]]の対話篇を現代に復活させた『帰ってきたソクラテス』([[新潮社]])シリーズや、中学生・高校生向けに語りかけ的文体で書いた哲学の入門書『14歳からの哲学―考えるための教科書』([[トランスビュー]]{{要出典範囲|などが話題を呼んだ。また文芸批評家の[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]をこよなく尊敬し、2004年には、彼の著作タイトルを拝借して|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)|title=「話題を呼んだ」「尊敬し」「拝借」の出典が無いならば、独自研究である。}}『新・考えるヒント』([[講談社]])を書き下ろしで発表した。
 
{{要出典範囲|[[アカデミー|アカデミック]]な世界とは距離を置き、あまり同時代の哲学者との関連性を論じられること少なかったが、亡くなる直前の[[ハンス・ゲオルク・ガダマー]]とドイツで対談するなど、活動の幅は広かった。『[[朝まで生テレビ]]』にパネリストとして招かれたなどを除いて、映像メディアに出演する機会は少なかった。|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)|title=「少なかった」「広かった」という評価の出典が無いならば、独自研究である。}}
 
旧姓によって文筆活動を行い、{{要出典範囲|エッセイ等においても既婚である事実や配偶者に触れることは全くなかった。肉親(両親)に関する話題はあったが、むしろ愛犬を話題とすることのほうが多かった。|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)|title=「なかった」ことの出典を示すことは難しいだろうが、出典が無ければ独自研究である。「多かった」という評価の出典も無い。}}夫とは、子供は絶対に産まないという条件で結婚したとされる<ref> [http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/988 日本財団会長笹川陽平ブログ「池田晶子と哲学」]</ref>。
 
{{要出典範囲|晩年は『[[週刊新潮]]』の「人間自身」(以前は「死に方上手」というタイトルだった)、『[[サンデー毎日]]』で「暮らしの哲学」を連載するほか、『[[Hanako]]』で[[人生相談]]の回答者としても登場していた。[[アカデミズム]]とは一線を画したが、『14歳からの哲学-考えるための教科書』の出版を機に、中学校や高校に赴き「存在について」「考えるということについて」などの主題について講演を行った。|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)}}
 
[[2007年]][[2月23日]]、[[腎臓がん|腎臓ガン]]のため46歳の若さで逝去<ref>[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200703020273.html asahi.com:「14歳からの哲学」池田晶子さん死去 46歳、腎がん - 文化一般 - 文化・芸能]</ref>。『週刊新潮』連載の「人間自身」最終回「墓碑銘」は死後掲載となり、{{要出典範囲|ここでは目前に控えた自らの死を怯むことなく韜晦気味に論じるという透徹した冷静さを見せている。|date=2016年7月22日 (金) 01:19 (UTC)|title=このような評価の出典が無く、これがWikipedia執筆者の「感想」であるにすぎないなら、独自研究である。}}
 
没後、夫の伊藤實を理事長として[[NPO法人]]「わたくし、つまりnobody」が設立され[http://www.nobody.or.jp/npo]、'''(池田晶子記念)わたくし、つまりnobody賞'''が創設された<ref>[http://www.nobody.or.jp/npo NPO法人/(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞]</ref>
 
== 主な著書 ==