「公孫晃」の版間の差分

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しかし、叔父には政治的能力が乏しかったため、配下及び民衆の不満が高まっていたところを弟に奪位された([[228年]])。そのため公孫晃は跡を継ぐことができなかった。公孫晃は弟を危険人物と考え討伐を進言したが、聞き入れられなかったという。
 
その後、弟が[[魏 (三国)|魏]]に反乱を起こし鎮圧されると捕らえられた。公孫晃は以前からの発言もあり助命を望み、[[曹叡]](明帝)もそのつもりだったが、周囲の反対が強く結局殺されることになった。弟の首が洛陽に届けられると、公孫晃は処刑は免れないと思い、子と抱き合って泣いた(魏書[[公孫度]]伝)。なお魏書[[高柔]]伝によると、獄中において妻子と共に、差し入れられた金屑酒(金粉入りの[[毒]]酒)を飲んで[[自殺|自害]]したことになっている。高柔は「公孫晃が討伐を進言したのであれば助け、そうでなかったのであれば市場で処刑するべき」と主張し、はっきりとした調査もしないまま密かに処刑させた明帝曹叡を批判している。また裴松之も、公孫晃のケースは[[趙括]]の母や[[鍾毓]]と同じケースであったにも関わらず、連座が免れなかったことに同情している。
 
これが基で名実ともに公孫氏は滅亡した。
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