「陳羣」の版間の差分

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|別名 =
|主君 = [[劉備]] → [[曹操]] → [[曹丕|文帝]] → [[曹叡|明帝]]
|特記事項 =
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陳羣は曹操に対し、帝位へ就くようほのめかしたことがあったが、曹操には拒絶された(「武帝紀」が引く『魏略』)。
 
[[220年]]、曹丕が王位に就くと、陳羣は昌武亭侯に封じられ、[[尚書]]に任命された。このとき、九品官人法を建議し制定させた。曹丕が[[禅譲]]により[[皇帝]]即位し(文帝)に即位し魏帝国が成立した際には、群臣達と共に尽力したため(「文帝紀」が引く『[[献帝 (漢)|献帝]]伝』)、その功績から重用された。尚書僕射に昇進し、侍中を加官された後、[[尚書令]]に転任となり、頴郷侯に爵位を進めた。
 
曹丕が呉の[[孫権]]を討つため[[広陵|広陵]]に侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した。また曹丕は帰還する時、陳羣に節を与えて[[水軍]]を統率させた。許昌に戻ると、鎮軍大将軍に任ぜられるとともに中護軍を兼任し、尚書の事務を執り扱った。
 
[[鮑勛]]を推挙し、その出世を取り成したが、曹丕は鮑勛を嫌い処刑しようとした。陳羣は司馬懿と共に鮑勛のために弁護したが、許されなかった(「鮑勛伝」)。
 
[[226年]]、曹丕が病に倒れると、陳羣は[[曹真]]・司馬懿らと共に遺詔を受け後事を託された。太子の[[曹叡]]が文帝曹丕の柩を見送ろうとしたときは、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取り止めさせたという(「文帝紀」が引く『魏氏春秋』)。
 
曹叡(明帝)の時代には、頴陰侯に昇進し、500戸の加増を受け領邑が1300戸となった。さらに[[曹休]]・曹真・司馬懿と共に開府を許された。陳羣は、しばらくして[[司空]]に任ぜられたが、尚書の事務も引き続き執り行った。
曹叡が初めて政務を執ったときは上奏し、主君に追従し臣下同士で不和を生じさせる者達に用心するよう述べた。
 
[[太和 (魏)|太和]]年間に曹真が[[蜀漢]]征伐を求めたときは、陳羣が慎重に行動することを求めたため、曹叡もそれを受け曹真に指示を出した。また長雨が降ると、陳羣が今度は曹真に撤退することを求めたため、曹叡は曹真に撤退を命じた。[[張コウ|張郃]]が戦死したとき、その死去を曹叡のために惜しんだところ、それがあまりにも過剰であったため、辛毗に批判された(「辛毗伝」が引く『魏略』)。
 
曹叡の[[公主]]の一人が亡くなると、曹叡は悲しみ自ら柩を見送ろうとした。陳羣は上奏し、出費の多さを理由に反対したが、聞き入れられなかった。
 
青龍年間、曹叡宮殿の造営工事に熱中したが、陳羣は多くの群臣達と同様に上奏し自省を求めた。曹叡は計画を幾分かは縮小させたという。
 
これらの上奏について、上奏を出した後には草稿をすべて破棄してしまっていたため、当時の人は誰もその内容を知ることが出来ず、高官にありながら何も仕事をしていないと批判するものもいたという。死後、[[正始]]年間に『名臣奏議』が編纂され、陳羣の上奏の内容が明らかにされると、人々は皆感嘆したという(『魏書』)。このことにより、陳羣は長者と称えられたともいう(『袁子』)。
 
また、かつて[[崔エン|崔琰]]が処刑されたとき、多くの人がその死を惜しんだが、陳羣は崔琰が身を処すことができなかったことを批判し、[[崔林]]と論争したという(「崔琰伝」が引く『魏略』)。
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