「祝朝奉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
オクヤマ (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目:
{{Pathnav|水滸伝|frame=1}}
{{特殊文字}}
'''祝 朝奉'''(しゅく ちょうほう)は[[中国]]の[[小説]]で[[四大奇書]]の一つである『[[水滸伝]]』の登場人物。
 
第47回~50から50回まで登場する、鄆州の独竜岡の祝家荘という村の長者。多数の兵士と3人の息子を初めとする豪傑を抱え梁山泊打倒を目論む。2代目首領[[晁蓋]]の元で組織として勢力を増してきた梁山泊軍にとっては初の本格的な対外戦争の敵として登場した。なお、朝奉とは豪紳に対する尊称であり個人名ではない。従って彼の本名は作中には登場しない。
 
== 生涯 ==
祝朝奉の名が作中に登場するのは、翠屏山の騒動の後、梁山泊に身を寄せようとした[[楊雄]]、[[石秀]]、[[時遷]]が途中で立ち寄った祝家荘の宿屋で騒動を起こし、村人に時遷を捕らえられた楊雄らが逃げ込んだ居酒屋で、楊雄の顔馴染みでもある店の主人[[杜興]]の口から独竜岡三荘について語られた際の事である。独竜岡には三つの村が隣接しており、中央に祝家荘、西側に扈家荘、東側に李家荘があり、三荘の兵力を合わせると2万にも達するとう。祝家荘はその三荘の中でも最大の勢力を誇り、主の祝朝奉を中心に、祝氏の三傑と呼ばれる長男の[[祝竜]]、次男の[[祝虎]]、三男の[[祝彪]]などの息子たちや、鉄棒の異名を取る武芸師範[[欒廷玉]]らと共に羽振りを利かせ、隣接する扈家荘、李家荘と共同戦線を布いて梁山泊に対抗していた。
 
杜興の提案で楊雄と石秀は祝朝奉の縁戚関係で盟友でもある李家荘の主[[李応]]を通じて、捕縛された時遷の解放を祝朝奉に要求するが、手紙による要求は祝家の三兄弟に侮辱と共に一蹴され、李応自身が直接出向いて直談判に及ぼうとすると、かえって祝彪の手で矢傷を負わされてしまう。万策尽きた楊雄らは李家を辞しそのまま梁山泊に駆け込むと、首領の晁蓋、副首領の[[宋江]]らに時遷の救出を懇願したところ、梁山泊の側でも人員の増加に伴い糧秣が不足していた関係から祝家荘攻略が宋江、[[呉用]]らからも提言され宋江を総大将とする遠征軍が編成される運びとなった。かくして祝家荘は梁山泊軍と干戈を交える事になったが、元々梁山泊軍の来襲に備えて軍備を固めていた祝家荘の守りは堅牢であり、欒廷玉や扈家荘から援軍として駆けつけてきた同じく縁戚関係にある女将軍[[扈三娘]](祝彪の婚約者)の活躍もあって多数の英雄豪傑を抱える梁山泊軍を相手に互角以上の戦いを繰り広げる。[[林冲]]の手で扈三娘が捕縛されてしまう一幕もあったものの、二度の戦いで[[黄信]]、[[楊林]]、[[王英]]、[[秦明]]、[[トウ飛|鄧飛]]を手取りにすると言う赫々たる戦果を挙げた。
 
かくして祝家荘は梁山泊軍と干戈を交えることになったが、元々梁山泊軍の来襲に備えて軍備を固めていた祝家荘の守りは堅牢であり、欒廷玉や扈家荘から援軍として駆けつけてきた、同じく縁戚関係にある女将軍[[扈三娘]](祝彪の婚約者)の活躍もあって、多数の英雄豪傑を抱える梁山泊軍を相手に互角以上の戦いを繰り広げる。[[林冲]]の手で扈三娘が捕縛されてしまう一幕もあったものの、2度の戦いで[[黄信]]、[[楊林]]、[[王英 (水滸伝)|王英]]、[[秦明]]、[[トウ飛|鄧飛]]を手取りにするという赫々たる戦果を挙げた。
しかし欒廷玉の義兄弟であり豪傑としても名高い登州の提轄[[孫立]]とその一族を味方として自陣に招き入れてしまった事からその優位は揺らぎを見せ始める。孫立が家族を連れていた事や、武芸師範である欒廷玉の昔馴染みである事から祝朝奉も息子たちも彼らの事をすっかり信用してしまっていたが、実は孫立は既に梁山泊に通じており内応のために送り込まれていた。孫立は攻め寄せてきた石秀を捕縛してみせ祝朝奉たちを信用させると、四手に分かれて梁山泊軍が総攻撃を仕掛け三傑や欒廷玉らがその迎撃の為に出撃した頃合を見計って捕らえられた頭領たちを解放し屋敷に居た者たちを皆殺しにした。祝朝奉は井戸の中に身を隠そうとしたが石秀によって首を討たれてしまう。迎撃に出ていた息子たちもそれぞれ討ち取られ、祝家荘の五十万石に及ぶ金銭糧秣は尽く梁山泊によって接収されたのである。
 
しかし欒廷玉の義兄弟であり豪傑としても名高い登州の提轄[[孫立]]とその一族を味方として自陣に招き入れてしまったことからその優位は揺らぎを見せ始める。孫立が家族を連れていたことや、武芸師範である欒廷玉の昔馴染みであることから祝朝奉も息子たちも彼らのことをすっかり信用してしまっていたが、実は孫立は既に梁山泊に通じており内応のために送り込まれていた。孫立は攻め寄せてきた石秀を捕縛してみせ祝朝奉たちを信用させると、四手に分かれて梁山泊軍が総攻撃を仕掛け三傑や欒廷玉らがその迎撃のために出撃した頃合を見計って捕らえられた頭領たちを解放し屋敷に居た者たちを皆殺しにした。祝朝奉は井戸の中に身を隠そうとしたが石秀によって首を討たれてしまう。迎撃に出ていた息子たちもそれぞれ討ち取られ、祝家荘の五十50万石に及ぶ金銭糧秣はことごとく梁山泊によって接収されたのである。
 
{{DEFAULTSORT:しゆくちようほう}}