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その具体的な成立の経緯は不明であるが、現在の研究では14世紀末、おそらく[[応永]]元([[1394年]])に死去した[[河野通義]]の没後に成立ではないかとされている。いくつかの異本があるが、最も古いものは[[上蔵院]]本であろうと見られている。最も広く流布したのは[[長福寺]]本と呼ばれるものである。
『予章記』によれば、河野氏の祖先は[[小千益躬]]([[越智益躬]])という武将とされる。小千益躬は「[[百済]]の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時、鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した」人物であるという。小千益躬の子孫に小千玉輿という人物が出たが、この人物の異母弟が[[南越国]]から父を捜して難波までやって来たので、越国との縁を表す
== 関連項目 ==
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